Chapter23 かやぶきの里について1


かやぶきの里について1

昭和60年の春からかやぶきの修復に入る。

今のかやぶきの「おやけ」は元々20年くらい空き家だった。
あそこは「栄屋」という屋号だったんだよ。
当時、そこの所有者の伊之助さんと我が家が若干親戚関係があって、そこの家を壊して田んぼにするという話を聞いたから、なんとかかやぶきを守っていきたいと思ったんだ。

自分が子供の頃は早く近代的な四角の柱の家に住みたいと思っていたはずなのに、
大人になったら妙にあの曲がった柱が恋しくなるというか。
座敷で寝転がっても天井のシミがウサギの形に似ているとか、自然がもろに現れたような曲がった木を使ったほうが価値があるというふうに思うようになった。

それをどうしても残さないといけないような気がしたんだよ。
でもそれをどうやって残すかと考えると、真面目にただ古いものを残しましょうと言ったって誰も集まってくれないから「ガキ大将の館」を建設しようと、俺たちの隠れ家を作ろうと。
そういう呼びかけで水曜会のメンバーが取り掛かっていく。
やり始めるとみんなだんだんはまってきて毎週日曜日集まったんだよ。
それが次第に人数も多くなっていく。

自分たちの世代はかやぶきの家で育っていながら門出からどんどんかやぶきがなくなってきているから。
1人じゃ守れないけどみんなで1軒ぐらいなら守れるんじゃないかという考えがあって、そこの家を預けてくれないかと伊之助さんにお願いして、お礼に1年に酒1斗、10本お届けさせてもらった。

昭和60年の6月からみんなでかやぶきの「おやけ」を片付け始めた。
かやぶきの「おやけ」は雪の守がしやすいように1階の屋根はあちこちもぎとられた悲惨な状態だった。
耕運機があったり藁が高く積まれていた内部は倉庫代わりに。
「しろべえ」(屋号)の和子さんや西の母ちゃんを除いてほとんど男ばかりで門出の人たちが多かったけど毎週日曜日は欠かさずに来てた。

当時はイスラエルのイズハルも紙漉きの研修をしていて「なんで大事な日曜日を小林の道楽でみんなが来るのかわからない」と言っていたね。
だから最初は来なかったんだよ。
俺は俺でやりたいことをやると。
でも結局は一緒になってがんばってくれた。

その当時、かやぶきで囲炉裏を使っている家は「九之助」(屋号)の爺さんと、中ノ坪の「長蔵」(屋号)のじいさんところの2軒。
あとはかやぶきにトタンをかぶせた家は結構あったけど。
少なくとも囲炉裏を毎日使っているというのがかやぶきの家の絶対条件だと俺は思っていたから、煙で燻すというのがかやぶきでの住まい方だと。
囲炉裏が無いかやぶきはかやぶきでないという想いがあった。

子供の頃は百姓家の7割くらいはかやぶきの家だった。
中学校くらいからだんだん建て替えていって、高校生になると1年に3、4軒が建て替えていった。
でも有難かったのはその頃かやぶきを壊すのは、今みたいに重機ではなく親戚や近くの隣人たちがみんなで家をお互いに壊していたんだよ。
だから俺も親戚関係だけで10軒近く家を壊す手伝いに行ってるんだよ。

茅を屋根の1番上から藁のつなぎで縛って落としながら。
建物の中の上部「そら」と言われる合掌になっている部分は、「さす」という大きなたて柱が組まれている。
「ふかぐら」という細長い木の丸太を「さす」と「さす」をつなぐ横柱にして幾重にも荒縄で縛りつけてある。
長い間けむりに燻されていてコールタールのようにカチンカチンになって刃物で切りつけてもなかなか切れない。
その外側は2~3メートル程の雑木(のぼりくだり)が上下にくくりつけて、その外側に簾を広げその外側が茅で覆われている。
茅はところどころ縄で「さす」や「ふかぐら」、又「のぼりくだり」に縫うようにくくりつけて止めてある。
その「そら」という合掌空間は薪や「ボイ」(柴)、屋根を補修するための茅、を備蓄する空間になっている。
それが年数経つとかやの崩れたものが堆積していく。
薪だとかのはがれたのがチリのように溜まっていくから壊す時にはそれが30センチくらいの厚さになっているんだよ。
チリと言えばチリだし軽い土のようでもあるし、それが壊す頃の状態。
それを最後に筵に包み囲んで下へドーンと落とすわけだ。
そうするとすごいホコリがブワーとけむりのように立つんだよ。
みんなこれをゲンバクと言ってた。
だからみんな目や歯以外真っ黒になって土人になる。
笑い話のようだが目だけがギョロギョロで誰だかわからなくなる。

それが長い間住んだ家に対して礼を尽くした壊し方だったような気がする。
昭和59年、かやぶきの自分の家を壊すことになったんだけど、我が家はこの門出でも最後のほうまでかやぶきで住んでいた。
我が家を壊す頃には岡田や岡野町のほうは重機で壊すのが当たり前になっていった。
当然黙ってれば機械を使って壊すことになるんだろうけど、俺はそれがとても切なく感じていた。

人間は人が生まれたときのお祝いよりも死んだときの葬式のほうを賑やかにやる。
家を作ったときも親戚たちがみんな集まってそこの家でお祝いをする。
だったらその家を壊すときにもそれにふさわしい壊し方をしないと気が済まないという気持ちがあって、だからどうしても人の手で壊したかった。
それで30人からの人が集まってくれた。

振り返ってみると我が家はみんな集まって家を壊す最後の建物だったかもしれない。
その後は機械で壊すようになっていった。
柱もチェーンソーで切り刻むのが嫌だったから。
大工の中村正志さんに頼んで柱を残したいとお願いして。
それは今も生紙工房の横に積んで残してある。
いつか自分が小さな五合庵(良寛が過ごした)みたいな家を作りたいというイメージがあったから。
その時にまた正志さんにその材料で作ってもらうかもしれないと思って残していた。


門出かやぶきの里
〒945-1513 新潟県柏崎市高柳町門出5237
TEL 0257-41-3370(門出ふるさと村組合)
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