Chapter08 百姓の仕事について


--- 百姓について

まず農業と百姓の違いは農業は業が付くから産業のひとつなんだよ。
だから経済的に合わないことは避けなくてはいけないし、採算ベースを考えなければいけない。
農業は自然相手なんだけれど、経済活動も常に考えながら行わなければいけない。
だからできるだけ田んぼは四角にして機械で作業を行いやすいようにしなければいけない。
百姓は田んぼの端まで稲を植えるけれど、農業は機械だから秋の稲刈りの際にトラクターなどで潰してしまうから稲を田んぼの端に植えてはいけない。
その他にも米がいくらになるとか大根1本がいくらになるとかを考えなければならない。
百姓っていうのは米1俵が1万円だろうが10万円だろうが基本的には自分の食べるものを穫る。
大根1本がいくらだろうがあまり関係ない。

あと百姓というのは突っ込んだ技術をたくさん持つよりは、1年中四季を通してやってくる色んな仕事を身につける。
だから勘が豊かじゃないと出来ないし、我慢力もないと出来ないのが百姓だね。
百の仕事がこなせる人で、その場合の百というのは無限と言ってもいいかもしれないね。
天気も読まなければならない。
でもその仕事1つ1つにこだわるんじゃなく、全体を見回してバランスを考えてトータル的にはこだわらなければいけない。
育てる部分が百姓の仕事。
育てられる相手、また気候にも合わせる、植える場所の土質にも合わせないといけない。
だからこちらが何でもかんでもこうしたいとこだわってはいけない。
自然の側にこだわるのか自分の側にこだわるのかで全然違ってくるからね。
何事にもふたつの因子があるから、そのふたつの折り合いにこだわらなければいけない。
百姓の場合はそうだと思う。

ただ作家や職人の場合には、己にこだわらなければならない宿命があるんだよ。
そのどれをやるかは、演劇の中でどういう役者を演じていくのかみたいな話で。
だから自分で思うには、自分はそういうこだわる役者をやらなくてすごい幸せな人生だなと思う。
もしこだわっていたら、たかだか自分1人の中のこだわりだから深い満足感はあるだろうか、本当の安らぎってあるんだろうかな。

--- 藁仕事のこと

いまうちのばあさん(母)に藁で「おいら靴」(雪の上で履く長靴)を作らせてるんだよ。
頭の中にいま思ってるのは、蓑とか山笠して藁の長靴で「こいすき」を使って雪を掘ってる映像を撮りたいなと思ってるんだよ。
50年以上前の子供の頃の風景、それもその当時でも全員じゃなくてそういう人がたまにいたというぐらいの景色なんだけど、それを再現してみたいと思って。
探したらおいら靴だけ無くてあとは全部揃ってるから「ばあさん作られるかい」って聞いたら「おら作られるよ」て言うからお願いしている。
おいら靴は十日町とか津南のほうでは「すっぽん」ていうのかもわからない。
この辺りでは「おいら靴」と言うし「藁靴」とも言うし色々あるけど作りはどれもほとんど似ているね。
うちのお袋は「テゴ」という山菜を入れたり弁当を入れる藁のバッグだとか小学校の頃から作らせられたから、作ればそのうち思い出すとか言ってた。
思い出しながら作ってるみたいだけどもね。

あとうちの家の隣のばあさんは雪の時にマントのようにかぶる「藁帽子」をイワスゲで作るという内職仕事をしていた。
そのばあさんがまだ体が動くうちに、それを作るのを映像で撮りたいなあと思って、昨年イワスゲを取りに行ったんだよ。
鳥追い行事やるときも藁帽子かぶっておいら靴を履いてると、昔ながらの行事になると思うんだよ。

--- 稲そい(背負い)のこと

去年、東京新渡戸文化小学校の子供が体験に来たときに本当は、稲刈りよりも稲そいを子供たちにさせたかったんだよ。
子供の頃は稲刈りを親がやって、子供はもっぱら背中でしょいだすのをさせられてたから。
稲そいは上手に背負わないと肩にくい込んで首吊り状態になったりとか、均等に背負わないと片側にくい込んだりで歩く負担になったり、稲を下ろした時には天がぐるぐる回って見えたり、息をついた時の開放感だったりとか、そういうことを感じてもらいたいんだよ。
歩く距離も半端じゃなくて、川の中歩いたり山の斜面を四つん這いになりながら駆けずり上がるみたいなことをしてたから。

背負うのも昔の荷縄なんかもあまりなかったから、四郎兵衛(屋号)の和子さんが布をおびにして用意してくれ、それが背負いやすいし絡まっても苦痛がないし、最初8把ずつ背負わせたら、男なんかはそれを2つ背負いたいとか段々挑戦したくなってきたみたいで。
じゃあ俺は3つ背負いたいとか。
8把が1束で、3束が「イゴ」1つと言って24把のこと。
稲を刈るとそこの田んぼでどれだけの量が穫れたかを推測するのにもイゴが20あったとかと言うんだよ。
稲束を4つずつ並べて高さ6段、このひとくくりずつ畦に並べ、一番最後の束はひっくり返して、雨が降っても全体が濡れないように傘をかけるんだよ。
そうするとここの田んぼは去年はイゴが18あったのが今年は20穫れたとかがわかる。
それで背負うとき、男はイゴ2つ、女はイゴ1つ半。
長距離になると女はイゴ1つ、男はイゴ1つ半になるのだけれど、俺はそれを3つ背負ったことがある。
真っ平らなところだと荷物をそう時に起き上がれない。
ちょうど棚田は斜面だらけだから斜面に荷を並べておいて自分が起きやすい体勢を作る。
ところが、威勢をつけて背負うから目方が頭のほうに来てそのまま前のめりに斜面の方に転がり落ちてしまった。
そんな所を人に見られていないか辺りを見渡してそんな自分のことを笑ってしまったり。
そんな話は「白姓」(映像作品)の中でも喋ってたよね。

稲のように軽いものは肩で背負う、とにかく荷物は上に来るように背負うの。
薪のように重いものは肩ではなく腰で背負うから、出来るだけ荷物は下のほうの腰に重心が来るようにしないといけない。
上のほうにいくと不安定になってヨロヨロする。
何かを運ぶときも箱物に入れる時も端から順番に積んでかないといっぱい積めないんだけれど、真ん中から積んでいったら一輪車でもなんでもこぼれ落ちてしまう。
だから一時が万事、経験をすることによって、それらの知恵がつく。
自然の中で生活をすると色んなことが基本となって応用ができるようになる。
何でも道具にしてしまう。
最初は誰もわからないけれど、やってくうちに誰もが利口になるところがいいことなんだよ。

稲刈りの体験よりも稲の背負いかたとか、稲を稲架(はさ)にかけるとか、そのほうが大事だと思うんだよ。
子供はどうしても「はしごに登りたい」って言うから「じゃあ上がってみろ」って言って稲を投げるのと、はしごの上で稲を受け取って稲架にかけることもやらせた。
でも本当は喜んでるところまでじゃなくて、クタクタになってもうやりたくないっていうところまで経験させたいんだよね(笑)
体験とかではそこまでの時間はなかなか取ってもらえないけども。

--- ボイ(柴)切りのこと

一年の最初の野良仕事は彼岸の頃の春木から始まる。
囲炉裏で燃やす薪やボイ切りの仕事だね。
子供の頃の手伝いで思い出すと、春一番の仕事は「春木」といって雑木を切ったりボイ切り。
ボイとは囲炉裏で燃やす柴のことで、薪にするのは太い雑木。
傾斜の崖なんかの雑木をナタで切ると自然に下に落ちる。
その落ちたのをたぐり寄せて残雪のあるところに引っぱり出すのが子供の仕事。
その引っぱり出した長い木を120~130センチずつくらいにナタで切るわけだ。
それを束にしてマンサクの木で縛る。
マンサクはいくら曲げて折ってもつながっているからロープ代わりとして使える。
だからマンサクの木はあらかじめ取っておいて縛り木用にする。
うちの未代吉じいさん(祖父)はその木を使って輪っかにして縛りあげた。
親父の栄一は藁で縛ってた。
だけど薪を10年も使わないでいるとマンサクの木を使ったほうはしっかり縛ってあるけど、藁のほうはふやけて切れたりするんだよね。

残雪のところに集めたボイ切りの束を今度はリヤカーが通る農道まで残雪のうちに運ばなきゃいけない。
背中で三束ずつ背負い出す。
ソリを使う時もある。
運んだら農道の脇にそれを積んでおいて、その上に雨が漏らないように茅をかけておく。
それを「ニオ」という。
今みたいにシートもないからニオにしておいて、雪が消えてくると田んぼの仕事が始まり、田んぼの仕事が一段落ついてお盆が終わった後ぐらいにリヤカーで家に運ぶ。
家の合掌の「ソラ」に移動させるんだよ。
ソラっていうのはかやぶき屋の天井裏。
それを家族全員でソラに上げて積んでおく。
あとは下で火を炊くようになれば乾燥していくから薪として使っていける。
だからそのソラに上げる時は家族総出で、長い三間梯子(さんけんばしご/1間=180センチ)の途中に3人ぐらいいて5~6人で手渡しで上げていく。
下からのを上の人が取って順ぐりに上げていく。
子供は一番下の最初の手渡すところとか、中学生ぐらいになると梯子の真ん中に行けとか言われて。
軽いのはいいけど薪のでかいのもあるわけだから、そういうのはブルブル緊張しながら落とさないように薪を持った両手を上に差し上げ、上の人もまたそれを下の人に落とさないように受け取り順次、次の上の人に上げていって積んでいくんだよ。

--- 田んぼの手伝い、畑の手伝い

それから3月末になると苗代にしようとしている田んぼの雪を早く消さないといけないから、近くの斜面の土を取ってきて撒くか、燻炭を撒くと50センチぐらいは早く消えるんだよ。
なおかつ雪が1メートルぐらいになったら所々クレーター状の穴を開けるのも、子供の頃はさせられたね。
穴掘ったとこからずっーと雪が消えていく。
「いっぱい穴掘ってこい」とか親に言われて。
4月末にならないと雪は消えないからね。

雪穴と言えば、冬の間は漬けものばかりで青菜が食えないんだよ。
だから少しでも早く食べるために3月末には菜畑の雪を掘り出すのが子供の仕事。
この菜のことを三月菜と言っていた。
8畳ほどの広さ、雪の多い年は2メートルも掘り出すんさ。
雪消えと共に青菜が顔を出す。
汚い話だけど冬の間に溜まっていた尿溜めから、かちき桶で親たちは運んで撒いていたよ。
そのせいか、あの頃はみんなが腹に虫を飼ってたんだね。
ことごとく検便に引っかかっていたもんだよ(笑)

もちろん春になればジャガイモからサツマイモから全部作るわけだから、畑に穴開けたり肥料あげたり種芋に灰くっつけるとか土かぶせるとか親の指示で従ってやってたね。
雪の多い年はジャガイモも1坪くらい種場だけ雪を掘って、灰をくっつけて一時的に苗床にしていたなぁ。
サツマイモは1畳ほどのイモ床を、まわりは藁で囲んでまやご(堆肥)を入れて、土の中にイモを並べた。
発酵熱で6月頃出てきた苗を雨の日を待って、挿し木のように畑に植えるんだよ。

4月20日から末ぐらいの間に稲のすじ撒きになる。
すじを撒くのは上手に撒かないといけないから親父がやるけども、燻炭をかごおろしで振ったりするのはさせられたね。
それから1ヶ月すると今度は苗取りと田植えになる。
その1ヶ月の間に田ごしらえをする。
万能鍬(まんのうぐわ)で田打ち(たぶち)をする。
刃先が3本ついてるのは3本鍬と言うけど、4本あるの4本鍬と言わずに万能鍬と言う。
その万能鍬で土を起こすんだけど、それはただ引っ張るだけじゃなくて、転がすようにしないと土はひっくり返らないんだよ

--- 牛の鼻取り

それから田ならしを昔は牛を使ってやったんだよ。
牛に馬鍬(まんぐわ)を引っ張らせていくんだけど、子供がやるのはその牛の鼻取り。
黄金色のかねの輪っかを鼻の真ん中に穴開けて、牛に鼻かんを差すんだけど、それを手で持って牛が暴れないように制御する。
鼻かんを持って子供がめいいっぱい上に上げれば牛はおとなしくなる。
そこに1メートルくらいの棒を縛り付けておいて、牛を誘導するのが鼻取りといって女子供の仕事だったね。

門出集落の半分以上は牛を飼ってたね。
生紙工房の近くが牛の爪切り場だったんだよ。
そこは四ツ足を縛る柱が4つ組んであるのが3ヶ所ぐらいあって、共同作業だからみんなが使ってた。
牛の爪切り日が1年に4回くらいあって、その日はみんなそこに午前中、牛を連れてきて共同で刀みたいなので爪を切るんだよ。
切らないと足が変形するから。
牛は農耕に使ったり、牛の子を取って売るために飼うんだよ。
だから牛を太らせて肉を売るためじゃなくて、子取り、牛の子供を取るために飼ってる人が多かった。
でも一番の目的は堆肥が取れるからだろうね。
堆肥は畑や田んぼにも撒けるし、今みたいな化学肥料は使わなかったから。

その他にも山の傾斜地の草を薙ぎ払って、一部は端に積んでおいて腐らせて翌年の春に田んぼに撒いてたね。
あとは7月頃になると草を全部大鎌で刈っておいて、飼葉(かいば)と言うんだけど牛のエサにするための干し草だよね。
それを7月の暑い土用の頃、干し草を縛って背中でしょいだして来るんだけど、干し草なんてすごい軽いからいくらでもしょえるんだよ。
だから自分の背中にものすごい大きな干し草を背負って運ぶんだけど、嫌なのは茅萱(ちがや)とかが硬くなっててそれが汗ダクダクの肌着とかにくい込んでくるからそのヒリヒリ感が今でもゾクゾクとするね。

--- 蚕のこと

昔は家で蚕を飼っていたんだよ。
2月に共同で蚕の種(卵)を買ってきて公民館の1室で当番を決めて育てる。
それが小さく育ってくると、あなたの家は10匁目とかうちは5匁目とか、多い家は20匁目買う人もいた。
それを配って個々が繭玉になるまで育ててた。
最初の小さいうちは桑の葉っぱを摘ませられたりしたけど、蚕の手伝いはそれぐらいかな。
でも段々大きくなってきて増えてくると、自分たちの飯食う場所も無くなるんだわ。
最後は回転まぶしといって60センチ四方ぐらいで厚さが5センチくらいの紙でできていて、開くと小さい目ができるようになってて真ん中に芯があって、そこに置いておくと、全部の窓のところに上手にみんな蚕が入っていく。
たまに2つが1つのとこに入っててでかい繭になることもあるんだけど。
それで入っていくと、ぐるっと回転するようになっていて、まんべんなく一通り全部に入るようになってる。
その前は藁で編んだのを広げてそこで作ったんだけど、誰が考えたんだろうか、回転まぶしのほうが効率がいいんだよね。
それを家の中の座敷のど真ん中にぶら下げて、その約1ヶ月間ぐらいは自分たちの飯食う場所も狭い状態になりながら蚕のほうに合わせた生活になるんだよ。

--- 分かち合うこと

あとは3月後半くらいの時期だったら味噌を作るから豆を煮て、半切りという木の桶のたらいに入れて、長靴を履いて踏む。
子供なら下手するとボソッと足が抜けるような大きさの長靴、またそういう隙間があるような長靴じゃないと熱くてしょうがないし、豆のうちはいいんだけど、粘土のようにくちゃくちゃなると足が上がらないんだよね。
味噌作りは今でも自分の子供たちとやっている。
味噌はこういうふうに作るというのを体の中に憶えておいてもらいたいと思って。
餅搗きなんかもそうだし、大晦日に俺が蕎麦を打ったりするのもそういう意味合いでやってるんだよ。
うまい蕎麦ができるわけでもないけれども(笑)
蕎麦とはこういうふうにしてこねてできるものだと憶えさせている。
そういうことを自分の子供にもさせたいと思うのは、自分がそういう記憶をポケットにいっぱい持ってて、それが自分を豊かにしてくれていると思うからなんだよね。

自分の子供全員に、雪があれば近くの棚田のとこで朝学校行く前にそりで滑らせてきたんだけど、そういったことを経験させたいんだよね。
要するにそういうことを子供たちと分かち合いたいと思うし、子供が大人になった時の親との思い出なども分かち合ったときが一番幸せを感じるんだよね。
今は共同作業なんかも少ないし、そういう機会が失われてるんだよね。
俺はみんなで苦しんだりみんなで喜ぶことが何倍も楽しいと知ってるから、分かち合うことが楽しい。
今はそういうのを煩わしいと思う価値観のほうが多くなっちゃってるんだよね。
俺なんか地域起こし関連でもみんなを巻き込むことをいっぱいやってるから、そういう意味では諸悪の根源みたいなもんだよ(笑)

(上部写真/2017年5月14日 孫四郎家田植え風景。奥は小林康生さん、手前は息子の抄吾さん

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