Chapter22 大地の学校への思い

大地の学校への思い

- 真の豊かさ

大地の学校という発想も、自然と会話する暮らしを再び作らないと真の豊かさは得られないという思いからきている。
真の豊かさは五感を豊かにしないと完成されないというのが根底にある。
それはやがて記憶の力として宿って人の心を豊かにしてくれる。

だからいま農村の役割としては必然的になってきているが、いまの農村の若い人たちは都市と全く同じ考え方になってきていて、今まで生きてきた年配の人たちも声を大にしてそれが大事だとは言わない。
それどころかみんな便利のほうに突き進んでいる状態だね。
便利は大事だけど心も大事。

でも農村の中に知恵を持った人たちがいっぱいいるんだから、そういう知恵や技を日本の未来のために、五感を豊かにするために育て上げる拠点としての役割が、農村にいま求められているのではないかと思っている。

本当の目的というのは便利になることじゃなく、その人の思いが叶うというか思いが満足することが目的。
また叶わなかったとしても満足できる心を育てることにある。
元々それを叶えるために手段はあった
でも人は進むうちに次第に手段のほうに振り回されていつの間にか手段が達成されると完了した気になってこれに経済が絡み込んで、これが長い間ずっと続いているような気がする。
大事な目的を失って世の中が進んでいる。
でもたぶんこのままではいかないような気がする。
自分が生きている間はわからないけど、人間はなんで生きているんだろうね、
という単純であり一番大事な疑問がみんなの中だんだん膨らんでくるという気がする。
その時に自然と寄り添う暮らしというのが人間にとっては必要だと気づくんじゃないかと思う。
でもその時に知恵を持った人たちがどの程度存在しているのかを考えると、今のうちに少しずつでも残していくこともやっていかなければいけない。

- 分かち合う

60歳を過ぎた頃、自分がこれまで一番幸せに思ったことはなんだろうと考えたときに、
やっぱり地域起こしで、同じ仲間たちが同じ目標を持って同じ釜の飯食って同じ難儀をして同じ喜びを感じたり、つまり分かち合うことなんだよ。
女房と分かち合うとか家族と分かち合うとか。
幸せというのは分かち合いたいと思う心が元になっているんじゃないか、というのが60年余り生きてきた自分の感想です。

心を分かち合うには心の余裕も必要だし必然(自然)をわからなければなりません。
だから五感を豊かにする体験というのは自分が勝手に作り上げた体験をするというのではなくて、ここ新潟なら米文化だから米と深く関わるようなことを掘り下げて、それを体験というより体感する中で体に突きつけられてくる難儀さや思いを、昔の人もそのことを感じたであろうと昔の人と今の人が分かち合うことが大事なんだ。

例えば、昔も今の人も風呂には入るけど、蛇口をひねって水が出るのがいかに文明であるかということ。
自分の先輩方の中には小川の水を汲んできて風呂に入ったとか、自分の経験では井戸ポンプで170回とか180回吊るとそこそこ風呂の水の量が溜まり、それから薪で火を炊くときにはカタツムリも一緒に焼きながら、ということをやってきている。
毎回新しい水だと薪がもったいないから、あっため湯と言うんだけど次の日も同じ水を使うと早く沸くわけだ。

また近所では1日おきに交互にもらい湯をした。
これはコミュニティとしても非常に良かったし、家族としても隣り合わせで分かち合っていた。
必然的に厳しい条件だからこそ、風呂の有り難みも大きかったと思う。
だからお風呂に入るじゃなくてお風呂をもらうという言い方をしていた
薪を自ら割って風呂を炊いてお湯に浸る。
その中で昔の人とつながることが大事なんだろう。
そこで体感する内容も根っこがあるような内容を基本とすべきだろうし、ここなら山で地域がやっていた暮らしを体感して昔と今未来つなげることを織り交ぜながらやっていきたい。

分かち合うというのもこの図のふたつひとつということで言うと、客観的に分かち合うのは、例えば貧しい人にその人が欲しいと思っているものとかお金とかを分けてあげることで分かち合う。
一方、心で分かち合いと思ったら自分も全財産を捨てちゃってその人と抱き合って、今日からあなたと私は一緒だよ、俺にも全然なんにも無いんだよ、と目線を同じに持っていく。
それが心で分かち合う方法だよね。
だから分かち合いの方法も客観的な分かち合いと主観的な分かち合いの方法がある。
心で分かち合うものは一番説得力があるしそれに勝るものはない。
感心じゃなくて感動しちゃうわけだから。
その人が全財産捨てて裸で同じだよ言われるほど感動するものはないと思うけど、実際世の中はそれで2人が餓死したり死んでしまうことも多々あるわけで、そうすると適当計のように、どこ分かち合いの折り合いにするかということがポイントになってくる。
ひとつだけですべてを解決することはできないわけだし。

人と人とが分かち合うこともあうし、村祭りや行事みたいに集まった人がお酒を飲みながら神と分かち合う。
神様と自分たちが一体になるという祭りをする。
お盆になれば亡くなった先祖といま生きている人が共に分かち合う。
もっと極端なこと言えば感動的な日の出や星空と分かち合う。
星空は全然関係無いようだけど誰の心の中にもずっと辿っていけば、あの星の一屑と自分の祖先が、自分の元がつながっているような感覚があるんだろうと思う。
だから感動したり、素直な気持ちになったり、心が落ち着いたりできるんだろう

→ Chapter07 大地の学校構想について

人気の投稿