Chapter20 なんだこりゃ僕の妄想図について-その2


「小林康生 なめく字展」なんだこりゃ僕の妄想図について-その2


今回は2018年4月から7月まで催された「小林康生 なめく字展」の中から「なんだこりゃ僕の妄想図」について解説したときのものです。
これらの考えはいま門出で少しずつ動き始めた「大地の学校」へとつながっていきます。

なんだこりゃ僕の妄想図について-その2

 「ふたつでひとつ ひとつはふたつ」


- 天然・自然

この図の一番右側に「天然」というのを置いてある。
人為的でない人間と対極のところが天然。
その天然と自然というのは国語辞典で見ればほとんど同じかもしれないけど、ある時、棚田は人工田なのか自然田なのかという疑問があって自分なりに考えたのが、棚田は天然ではないが天然の側に寄り添った形、それを育てる人も自然に含めて良いのではないか。

誰だったかの話で、野生の動物を獲って食うやつは許せるけど、そこに種を蒔いたやつは許せないと言った話があって。
そもそも種を蒔くというところから人が定住を始めて、人工的になっていった天然から1歩ずつ離れていったんだ
だから天然と自然が一緒なのは人間にとって少し寂しいような気がして、天然に寄り添った行為であれば人を含めて自然と言って良いのではないか。
それがこの図の天然と自然の位置関係なっている。
ちょっと人間臭い側に置いてある。

- 数値化・発展変化

文明の最たるものは発展とか変化が基本になる。
ひたすら向上を理念にしている手法としては数値化することだと思う。
いま流行りの見える化するという。
時間で1秒2秒とか、1グラム2グラム、1メートル2メートル、色んな数値をつくる。
時間は特にそうだね。

例えばバリ島なんか夕方7時に集まりましょうと言っても1時間くらい誤差があっても当たり前の暮らし。
昔、パプアニューギニアの王様がヨーロッパに行ってその後自分の国に帰ってきて報告したことに、西洋人は自分たちで時計というものを作ってひたすらに忙しくしているという話があるんだけど。
そういう見方もできるくらい時間や数値化は、みんなの歩調を合わせたり統一させるのには便利だけど個々のリズムを大幅に狂わせているというのも事実。
発展の思想からすればこれは避けられない、数値化というのが基本になっているんだろうと思う。

- Yes/No

客観の一番大事になっているのが「Yes/No」の2者選択。
コンピューターの元のように良いと悪いの中間である曖昧がない。
曖昧を許さないというのがやっぱり客観の世界には必要なんだと思う。

- 知識/知恵・勘

図の真ん中に「知識」と「勘」がある。
知識というのは学校で勉強して教えてもらう、頭から入る行為。
見えない世界のほうでは自然というのは何も教えてくれるわけではないんだけど結果として体から入ってきて気づく。
教わるのではなくて気づくという入り方をする。
体から入ってくることによって勘が育つというか勘が体の中に入ってくる。
その気づきが歳を重ねるごとに数がどんどん増えたり、大きな体験をするとポケットが重くなる。
それを重ねることで記憶の力が宿る。

普通は五感と言うと味覚であったり視覚であったりするわけで、今の現在形では確かにそうなるんだけど、もっと人生全体を眺めてみるとそれを全て取りまとめているのは記憶の力のような気がする。

だから記憶の中である音楽を聞くと何か蘇ってきたり、ある匂いを嗅いだときとか、ほとんど芽の出ないようなものがひょこんと芽が出てきたりすることが多々ある。
若い頃はあまり芽が出ないものがそれを積み重ねることによって、記憶の力がその人の豊かな心を作り上げることにもつながっているんだね。
それが無いとのっぺらぼうな人生なんだけど。
苦しかったこととか感動したこととか色んな環境の中で自分の身をその中に置いて体験することによって、勘が宿ったり最終的には記憶の力が育って大きくなる。
記憶の力心のなんだね。
あるものを見たとき若い頃の目で見た感じと記憶の中の目を合わせて見ることで、より深い味わいかたができるようになる。

学校で教わる知識と自然の中の体験を通して体に入ってくる勘が、併せ持った両方をたぐり寄せたところに知恵というものが存在するんだろう。
知識人はいっぱいいるけど、知恵を持った人が少ないのは校の勉強はいっぱいしてるんだけど体験力というか記憶の力が足りない。
これが心が豊かになると知恵者が増えてくるんだろうなと思う。
農村の百姓の中に知恵者がたくさんいる。
それはこれまでの体験から裏付けられているとうことになる。

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