Chapter19 なんだこりゃ僕の妄想図について-その1


「小林康生 なめく字展」なんだこりゃ僕の妄想図について-その1


今回は2018年4月から7月まで催された「小林康生 なめく字展」の中から「なんだこりゃ僕の妄想図」について解説したときのものです。
これらの考えはいま門出で少しずつ動き始めた「大地の学校」へとつながっていきます。

なんだこりゃ僕の妄想図について-その1

「ふたつでひとつ ひとつはふたつ」


- ふたつ/ひとつ

自分が30代後半のときにすべての根っこはひとつから出発しているんじゃなくてどうやらふたつから出発しているんだと気づいた。
ひとつの中にはふたつがありふたつひとつである。

そう考えると「絶対」という言葉も、絶対の対は1対の対という意味なのでそれを絶つのが絶対。
つまり元々は1組が始まりである
そう考えると絶対というのは人間だけが使用できる。
それは人間故に絶対ができるという素晴らしさもあるし、その不幸も幸せもある。
自然界においてはいずれにしろふたつひとつで、ひとつふたつである。

- 客観/主観・考える/思う

そのことに気づいたのは普段、私はこういうふうに考えますと言わなきゃいけないのに、思いますと言ってしまったり、逆に自分が思っちゃってることを考えますと客観的な言い方をする。
「思う」というのはその人だけが思うので、他人が思うか思わないかはまた別の思いかたをするわけだから必ずしも揃ってないのに、曖昧に言葉を使ってしまうところから、あれ?おかしいなと気づいた。
それは自分だけじゃなくて普段会話のなかに多々あるから、こりゃなんだろうと。
それから「考える」という客観的な世界と、「思う」という主観的な世界と、これをふたつに振り分けてみるという操作が始まった。

- 文明/文化

もうひとつ曖昧だったのが「文明」と「文化」
どこからが文明で文化なのかがよくわからなかった。

それがこのふたつの分類のなかで文明はなんとなく心から出てきたものではなくて、
客観的な発展とか変化しないものは価値がない、ひたすら便利の追求の元。
今日と明日は同じことが許されない。
必ず1歩前進していなければいけない。
それがどうやら文明の元になっている。

例えば、うちの爺さんと親父が子供だった頃はほぼ同じような遊びをしていた。
だけど自分の小学校の中学年の時代にラジオではなくテレビが入ってきた。
だから親父と自分との間には、山遊びや魚取りなど同じような遊びもやっているけど半分くらいは親父とは共通しない遊びや時間の使い方が入ってきた。
次の倅になるとファミコンゲームが入ってきた。
そうすると山で遊んでいるよりもファミコンで遊んでいるほうが楽しい。
自分は自然とともに遊んでもらいたいという願いもあるんだけど子供はファミコンをやりたい。
少しずつ時代が進歩していけばいいんだけど階段が1段そっくりと変わってしまったものだから、自分の記憶をいくら辿っても出てこないファミコンゲームを理解できないから拒否反応をするんだよ。
そんなのやめちまえと。
たぶん自分が理解していれば、あまりやりすぎないようにとか注意の仕方も少しは変わってくるんだろうけど。
知らない世界のことはどうしても拒否反応するんだよ。
そういったことで必ずしも進歩が良いばかりではないということに思い当たる。

文化というのは言葉の中に中心があるような気がする。
特に方言だとか日本語のなかには文化がいっぱい詰まっていて、例えば粋などは訳すことができない。侘び寂び渋いなどは日本特有の情緒。
それはそこの文化風習、気候風土とか色々あ模様が思いが中心になっている気がする。
それが文化イコール心。
変化はするんだけど発展は目指していない。
心と自然をまず優先する。
それにそこの土地の風土気候が影響を及ぼす。
方言や祭り行事、自然に寄り添ったものが文化である。
文化は人の心が根源にあって、文明の便利と比較すればお茶の世界だとか考えてもむしろ不便をむしろ楽しんでいるとさえ思えるような。
そんなのが文化のなかにある。
客観の見える文明に対して、主観の見えない文化。

文明が発達して人の心がないがしろになったり、自然と共存しながら自然の側に寄り添って生きるということが今は忘れられている。
自然押さえつけるものだと思っているんだよね。
それが文明の思想だね。
それはとても危険だなと思っている。

生紙工房を作った大工さんの話を聞いてもそうだけど、まだまだ昔ながらのボルトを使わない刻みの方法で非常に強度の高い建物を作ることができる技術がありながら、安直にとりあえず有効なボルト使って建てないと検査は通らないと。
そこにどんどん技術がいらないような仕事ばかりになって職人が本来の仕事をさせてもらえない。
床のフロア張っても昔の大工はだんだん床は朽ちていくものだから取り替えやすい作りにしていたけど、今はもはや取り替えることができない作りになっていると。

高気密高断熱の建物も下でストーブを炊くと熱が上に上がる。
上から抜ける場所がないと雪国では結露が発生する。
一番上に隙間を作ったら結露が解消された。
今は完璧に高気密にして結露が発生しそうになったら電気の力を借りてそれを排気するという非常にエネルギーのもったいない方法が主流になっている。

自然に寄り添う暮らしとはどういうことかと言うと、暑いも寒いもほどほどは我慢しなさい、難儀な仕事もあえてやりなさい、ということ。
快適だけを目指してはいけない。
結果として快適があることを感ずる心が大事で最初から快適のみを目標にしてはいけない
自然と折り合う力を持つこと、暑い寒いも難儀もそこそこ我慢できる人たちを増やさないと文化は残らないんだよ。

自分の知る限りでは大工さんとか紙屋さんとか左官屋さんとかはまだ良いものを作る力は持っているのに、市場がそれを受け止めてくれない。
せっかく畑で育てた楮で紙を漉いてもそれを理解できる人がほとんどいなくなってきている。
五感の鈍った人に五感のある商品を見せても理解ができない。
使うことができない。
本物の大工に仕事させることも左官屋さんの腕を発揮させることもできない。
これは作り出すほうはまだ日本は力があるのに使える人がいない。
だから次は育たない。
やがてなくなる。

つまり文化水準が高い低いというのはものを作り出す力があるかないかではなくて、使える人が理解できる人がどれだけいるかが文化水準。
使える人がいれば必然的に作る人がまた育つという循環になるわけだし。
これだけ文明のほうが強くなると使える人を無くしてしまっていて、文化が非常に衰退している状態。
文化というのは、元々自然と関わっているところに発生しているような気がする。
文化は江戸文化というのはあったけど近代都市は文明ばかりで文化はやせ細っている。

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