Chapter21 なんだこりゃ僕の妄想図について-その3


「小林康生 なめく字展」なんだこりゃ僕の妄想図について-その3


今回は2018年4月から7月まで催された「小林康生 なめく字展」の中から「なんだこりゃ僕の妄想図」について解説したときのものです。
これらの考えはいま門出で少しずつ動き始めた「大地の学校」へとつながっていきます。

なんだこりゃ僕の妄想図について-その3 

「ふたつでひとつ ひとつはふたつ」


- 創る/作る

客観のほうの世界に人為的というか自分の個性とか自分本来の表現するという創作する「創る」という言葉がある。
自分ファーストである。
それに対して自然のほう側では、畑作の「作る」
育てさせてもらうほうの作る、自分だけが作るんじゃなくて今で言うコラボのような。
子供を育てるとか畑の作物を育てるとか。
育てるということは自分だけでは始まらない。
育てられる相手のことも考えたり思ったりしながら折り合いをつけながら進めないといけない。
自分がと言ってはならない。
自然の側にある行為。

- 輪廻思想

輪廻思想は、アジアの輪廻思想のまた元に戻るという思想が天然の世界にはある。

- 気配り/心配り

気配りと心配りは辞典では一緒に扱っているかもしれないけど、どちらも人の心が中心にあるけが気配りは他者を優先させ、心配りは自分の思いを優先させる。
気配りは全ての方に感心させることはできるけども感動に届くことは少ない。
一方、心を配るということは人によっては余計なことも多不快になる場面も多い。
自分の母親がそうだし、たぶんどこの母親も自分の思いを自分の子供にかなり深く介入して命令するような形で自分の思いを強調するものだから多くの子供がうんざりもするだろう。
しかし一番有り難いのも母親であるというのまた事実で、つまり本当に心が分かち合えた時は感動も大きい。

つまり心配りというのは心の世界は諸刃の剣が避けられないということになる。
気配りは、レストランのウエイトレスさんやホテルのボーイさんたちもそうだけど、若くてまだ成長過程の人でも訓練とか教育、対人関係でひたすらその人が喜ぶようなことを教育すればいいのでそこそこできるようになる。

でも心配りとなるとその心を配る方法が人の数だけ違うんだね。
その人の生い立ちや環境によってそれぞれの心の中の記憶の力が違うわけだし、またその重さがどんどん重くならないと芯の感動につながらないんだろうと思う。

最近は香典返しなんかも気配り対応でカタログ送っちゃうのが主流になっている。
昔のようにお茶だとか物でお届けすることはどんどん減ってきている。
確かにお茶とかコーヒーだとか好きではない人に送られてくるとあま有り難くないということになるが、自分なんかコーヒーが好きなので死んだら女房にコーヒーでも配れと言っている。
亡くなった側の、つまり主催者側の思いを伝えるか、或いは主催者側の気配りを伝えるかはそれぞれが決めていけばいいわけだけど、現代は気配りのほうに時代が移行している。

一般商品もとても便利で不良品もとても少ない。
感心する商品がいっぱいあるけど、一方その人の心が見える商品、感動する商品はなかなかお目にかからない。
ホテルとかレストランでも感心するけど感動する場面の接待はあまり無い。
客観というのは感心が限界なんだね。
諸刃の剣を超えないと、人の心が入らない
感動にはつながらないようだ。
企業はリスクであるこの諸刃を避けるから気配り商品にだんだんなっているのだと思う。

- 平等・平和・理性

でも客観が素晴らしいと思うのは平等とか平和とか理性。
理性の世界ですからこれが守れるというのが最大の特徴になる。
感動しないから面白みのない世界だけど、理性的に客観的に制御してチェックして平和を維持するには非常に有効である。

心のほうの主観というのは感動と不快がいつも諸刃になっているわけだから、とてもダイナミックで心躍る世界なんだけどテロとか宗教戦争とかみたいに強すぎる思いが平和を壊している事実もある。

- ちょうどよいは江戸にもない

だから理想的なのは客観と主観がほどよくバランスが取れるということが理想の世界だと思っている。
死んだ親父が「昔から、ちょうどよいは江戸にもない」という言葉があることを自分に教えてくれた。
なんでも揃う江戸でもちょうどよいというのは無いんだよと。
考えてみるといつの時代もなかなかちょうどよいというのは無かったのかもしれない。
社会にとっても個人にっとてもちょうどよいというのは難しということだろう。

- 適当計・原子力/原始力

この図の中には、ちょうどよいを目指した適当計という折り合い測定器がヤジロベエのように真ん中にあって、
左側のほうは原発の原子力、右側のほうは原始時代の原始力。
今日このたくましい原始力が足りなくなっているのではないかという図になってい

- 漢字/ひらがな

「漢字」と「ひらがな」というのは漢字というのは説明をするのが中心に座っている。
初めて見る漢字でもある程度意味が理解ができる部分がある。
ひらがなの大和言葉の中は、ほっこりとかほんのりとか心からにじみ出たようなイメージというかな。
これは完璧に分けることはできないし漢字の中にも思いがあるんだけど、例えば行政が使うとすれば漢字を大いに使えばわかりやすくていいわけだし、詩人とか主観を中心にするものであれば、ひらがな言葉を使ったほうがこの日本国においては有効であると言える気がする。

- タテマエ/ホンネ

複数になればタテマエとホンネが始まるけど、歴史が奥深さを育て文化になります。
田舎はどこでもすごくタテマエが強い。
例えばここだと雪もいっぱい降るし1人じゃ生きていけないから助け合わないといけない。
タテマエが強いというのは自分1人が自己主張をするんじゃなく、非常にへりくだってないといけないという大前提があってタテマエが自然と強くなってくる。

逆に言うと原始時代の頃はタテマエなんか無かったかもしれない
自分が思うようにホンネで生きるのが自然の姿だった。
それが1人でなくてやがて多くの人が関わるようになると我慢したりしなきゃならなくなってきて、それらが時代とともに大きな社会を作るようになればなるほどタテマエが何重構造のように、タテマエの上にタテマエとか、タテマエの下にまた別のタテマエとかいうものができてきたんだろう。

それは文化とも言える。
例えば京都とか京都人同士ならわかることが外の人にはその言葉がどこまで意味しているのか、ニュンアンスなどタテマエが重なっている。
それは農村にもそういうのを引き継いでいるんだよ。
だからタテマエが非常に強いというのはそれなりの文化が根付いてきた歴史があるという裏付けにもなる。
それに比べたら都会のほうではそこまでしなくてもホンネだけで生きていける。
人を頼らなくてもそこそこ生きられるからね
そういう条件、環境が整えばタテマエは二の次になってホンネを中心とした社会になるんだろう。

だから自分の生まれた場所から考えると雪国や東北のほうがよりタテマエが大きくて、気候風土が穏やかな地域は比較的ホンネ社会でも生きていけるような気がする。
もちろんどこでもタテマエとホンネもあるけども。

紙漉きの関係で言っても例えば、同じ雪が降る出雲、石州には新潟と似たような文化を感じることがある。
四国に行くと明らかに違う。
そういうのは気候風土が大きく関わっているんだと思う。
イスラエルなんかは日本と対極でホンネ社会だけど、他民族国家や郷として新しい所はホンネが強いようだ。
ラジオ中継など聞いていて車のクラクションの音が多い国だね。

- 公平

あと平和、平等、理性の下に「公平」とあるのは平等というのは字の通り理解するなら10人が10人分を文字通り等しく分配すること。
自分の経験でも例えば10の集落に予算100万を分配する場合、コンバインの値段が仮に30万円するなら平等に10万円ずつ分けたらどこの集落も永遠に買えないことになる。
だけどみんなで話あって公平の原則にしようじゃないかとなったら、いくつかの集落にその年は分配していいんじゃないという公平の原則ができる。
みんなの心が分かち合えるなら、が前提になる。
医療会計など中国・アメリカは平等、日本は公平になっている。

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