Chapter17 狭山の朝市と西武の101村展



狭山の朝市と西武の101村展


俺達がその頃特産として一番注目していたのは米だったんだよ。
でも食糧管理法で自由に米の売買ができなかった。
それからショッキングだったのは今でも覚えているんだけど農業改良普及センターの人の講演を農協の2階で聞いたんだよ。
その当時、柏崎刈羽で1反歩10アールの1番手間のかかっていない機械化の進んだところが1反歩5人手間だと。
1番手間のかかっているのが高柳の機械使わずにやっているところで、天日干しで稲架に干すわけだ。
それが33人手間。
その5人手間と33人手間が同じ米の価格で売られていく。

実は農協に集められる米は平地の米だけだとまずいから山地の米とブレンドして品質を維持していると。
つまり天日乾燥稲架で干した米と機械乾燥した米をブレンドしているけど、価格は一緒。
それはちょっとないだろうと。
それが我々のなかには渦巻いていた。
まもなく食糧管理法がなくなるであろうと大体推測はできた。
つまりコシヒカリを売り出すんじゃなくて、稲架に干した稲架場米の値段を高く売る方法を考えなきゃいけない。
しかし自由に米を売ることができない。

苦肉の策としては狭山の朝市で2千円お買い上げ頂いた方には米1合をプレゼントした。
我が家の和紙にきちんとミシンで縫って袋にして天然乾燥稲架場米というのをパッケージして。
そこには我が家の住所をしっかり書いておいて後々直接販売するという意図でやっていた。

狭山の朝市をつなげてくれたのは、中村正義さんという方。
小学生のとき門出を転出されたんだけどその人が狭山で25歳から市会議員やってたの。
俺が地域起こしやってるのを彼のほうが知っててくれて、東京で紙の展覧会があったときに来てくれた。
そのときに色々喫茶店で30分くらい話してる中で都市との交流を展開したいと思っていると話したら、じゃあうちらのほうで朝市やってるからそこへ来るかという話になった。
それで行くようになった。

1回目の狭山の朝市は昭和59年10月28日かな。最後の日曜日。
あの頃は関越高速が東京から前橋までつながっていて三国峠越えしていくわけだ。
トラックは「はしば(屋号)」の十一朗さんの2トン車の幌付き。
それと「上野屋(屋号)」の良知さんのがあってそれで品物を持っていった。
でもその品物を持っていくというのが実は大変で、農家のみなさんに大根とかなんでも出してくださいって言っても出してくれる人はいないんだよ。
売れるのか売れないのかわからない、俺たちもどれだけ売れるかはわからないわけだし。
でも色々集めてトラックと乗用車3台で行ったんだよ。
我が家に夜12時頃集まって出発して、朝4時前には狭山のショッピングセンターマルエツに着く。
そこの駐車場が日曜日の朝8時から9時までの1時間が朝市になる。

朝4時頃着いて始まる8時までは時間があるから、しばらく車の中で仮眠して7時頃になったら品物を並べる。
ありがたいことに門出の隣の田代集落出身で、自分より1年先輩の中村はるきさんが近くで店を出していて準備から出店の手伝いで助けてもらった。
また実家である田代のお母さんたちも一緒に出かけて協力してもらった。

1回目はひどいもので頭数はいるけど商人は「はしば」の十一朗さん1人だけ。
みんな物を売ったことのない人足だから品物を並べるときに値札もつけていなかったんだよ。
品物を並べたところで値札を置いていこうと思っていたのが開始の8時までに間に合わなくて。
なんだかわからないけど長蛇の列がずーっとあったんだよ。
それが8時になったら一斉にうちらのところに来て、これはいくらだとか言われてもまだ値札がついてないのもあったり、2千円お買い上げの方に米やるものだから単品で買っていかないんだよね。
ある程度量を揃えてから会計するから。
もう大変なパニック状態になった。

行列になっていたのはなにか新聞かなにかで新潟から来るって宣伝してくれたみたいで、まさか俺たちのところに来るとは思ってもみなかった。
だからあっという間に売れちゃった。
だけどみんな銭勘定ができないから本当に大変だった。

納豆なんかも藁納豆作って持っていったんだけど、今売ってるやつみたいにこっちのはそもそも「やじ(納豆から引く糸)」があんまり出ないんだよ。
ほんのちょこっと出るだけなの。
買っていった人が「これは納豆だけどあまりやじが出ないです」とか言って返しにきたり。
俺らがやると出るけどなあと、要するに認識の違いがあったりとか色んなことがそのときあった。
でも狭山の商店街の人たちが俺達が銭勘定できないからみんな手伝ってくれて、本当にありがたかった。
そんなのが1回目。

狭山の朝市は2ヶ月に1回行っていたから次の12月に行ったときは餅搗きをメインにしようと。
それと漬け物と藁の草履も持っていく。
「西(屋号)」のばあさんを連れていって現場で藁草履作りしたり、かた餅を揚げた「かるかる」を作ってもらったり、漬け物もタクアンだとか野沢菜だとか持っていくために用意したり、山野草も持っていった。
それで次はこんなものを持っていきますとお客さんにお伝えするために芳名録を置いて住所も書いてもらっていた。

そんなことをやってるから俺の紙の製造がどんどん遅れてくる。
その頃は和紙工房は俺と「西方」のとっつぁんだけで、紙仕事をしていて「お前が地域起こしで頑張ってるから自分が一生懸命に漉くから思う存分やっていいよ」と言ってくれて、俺にとってはすごくありがたかったね。

その頃取引のあった東京の東利舟(あずまりしゅう)さんが池袋と渋谷に店を出していて、納品の催促を時々もらう。
狭山の朝市の案内状を和紙のハガキにプリントゴッコで印刷して、こんなことをやるから来てくださいと送ったんだよ。
つまりこのことをやるために納品が遅くなりましたという言い訳に送ったんだ(笑)
それが西武デパートのほうに流れて伝わっていって、後の西武の「101村展」につながっていくんだよ。

昭和60年4月に第1回目の西武の101村展が華々しく始まる。
その企画は「メイドイン村展」というタイトルから出発して、企画の段階から自分も関わらせてもらった。
101村展へは他の地域は役場の観光課の人だとかが行くんだけど、高柳はみんなおっかさんとずぶの素人で参加してたんだよ。

翌年の昭和60年4月の狭山の朝市は101村展とぶつかったんだ。
だからそのときは荻ノ島集落の方にお願いして「べったら漬け」だとかをおっかさん方がやってくれたんだよ。
だから狭山が終わったあと西武のほうに合流してもらって、俺はほとんど西武のほうから抜けられなかった。
その次の6月はあまり品物がなくてミズナなんかを持っていったかな。

西武の101村展のほうはとりあえず5年間は出ようと決めた。
6年目になったら出るだけじゃなくて来ることのほうをやろうと考えていたんだよ。

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