Chapter16 水曜会について
水曜会について
自分が27歳になったときに青年団のOBというか、まだ若いし色々と活動をしたい人たちが我が家に集まった。
集まった日が水曜日だったから「水曜会」と呼ばれている。
正式名は、その名前をつけるのに4回も5回も集まって、結局「これからの高柳を考える会」という立派な名前をつけたんだけど、ほとんどは「水曜会」で通していた。
最初は門出の青年団OBが中心で我が家に集まっていたのが、そのうち自分の友人や他の集落からも来るようになった。
その活動の中で、狭山の朝市だとか、かやぶきの修復だとか事業を展開する中でどんどん人が増えて、門出以外の若手もやがて同志になっていった。
水曜会というのは会費も無いんだけど、とりあえずみんなが酒飲むから千円ずつ持ってこいと。
だから俺は酒は飲めないけど俺の部屋の前は酒瓶がゴロゴロしていた。
みんなが酒飲みながら立派な話はほとんどしない。
その日あったことや世間話がほとんど。
つまらないっちゃつまらないし、面白いっちゃ面白い。
政治の話や地域起こしの話はやってもほんのちょびっと。
俺は真面目だったからそういう話も盛んにしなくちゃいけないと思っていたんだけど、大工の棟梁の中村正志さんが「そんなのは帰り際に2、3分やればいいんだよ」と言っていたんだよ。
その意味が何年も経ってからわかった。
会議らしい会議なんていらないんだと。
飲んで話をしてそれが人と人との絆になって、そうすると考えを越えたものが取り組めるというのを教えてくれた。
考えが同じじゃなければ動かないというものではないんだと。
それを彼は教えてくれたんだね。
正式に水曜会の名前を決めたのは昭和57年の秋だったかな。
それで自分が当時28歳で何はともあれ議員を出そうという流れで俺が町会議員に立候補する。
それで昭和58年4月に統一地方選に初めて出た。
俺が議員に出るきっかけは、門出集落の長老で長年議員をやったり区長をやったりした人が私に「あなた出なさい」と言った。
これは他の集落ではあり得ない。
他の集落では歳取った人が順番で序列があって次を伺ってるわけだよ。
この次はあなただねと。
門出だから、つまり色んな行事を年寄りも青年団も一緒のことをやってきているから、よく姿が見えるってことだよね。
年寄りと若い人との間に断層がなかったから。
だから村の歳取ったひとが俺に「議員に出るように」というけしかけがあって、それを水曜会に相談をしたら正志さんから「みんなが康生を応援する前に、まずお前が本当に出る覚悟のほうが最初だ。それは落ちたときはお前の責任であることを確認することでもある。みんなの責任ではない」と言われた。
俺には政治色はなにも無い。
俺が右でも左でもどんな人間かなんてまだできてもいないヒヨコ。
ただ村の中で一緒にやってきてこの男ならまあ良いんじゃないかという感じで声かけてくださったんだと思う。
自分を支持する人も右も左も色んな人が混じってたからね。
当時の村の長老からすればもうちょっと保守的であってほしいと思っていたかもしれないけどね。
そのとき田中角栄さんが非常に全国的には叩かれていた時期だった。
まず金券問題で吊し上げを食らってオイルショックがあって、退陣する。
その後ロッキード問題につながって全国から叩かれていたとき、その新潟3区では22万票というかつてない支持票。
田中さんは新潟県内の人にとっては、実際に道作ったりトンネルできたりするから神様以上の人だったんだよ。
水曜会のメンバーの中でも田中さんが好きだという数が圧倒的に多いんだけど、好きだけど支持はできないという人もいて色んな意見が混在していた。
自分の立場としては褒めたりけなしたり、ここは良いしここは駄目だというのを言える一辺倒の立場ではなかった。
だけど高柳町の他の議員は共産党以外ほぼ一辺倒の意見で、田中さんは別格の神様扱い。
それを支持しないのは高柳の人間ではないくらいの見方をされていた時代だったんだよ。
そこへ自分が初めて議員に立候補したとき、TBSの報道特集という番組で田中さんを100%は応援しないグループができたと報道された。
いわゆる反角でもない、中角。
中角でさえも珍しくてニュースに出るくらい田中さんを応援するのが当時は当たり前で中立的な立場は珍しかったんだね。
それから新潟日報の記者の小田敏三さんだとかTBSの記者の岩城浩幸さん、同じ年齢くらいの人が我が家にやって来たり、後に小田さんは社長に、岩城さんはキャスターになったね。
その後、野坂昭如さんが立候補してやってきたり、駒沢大学の福岡政行教授も来た。
代議士の桜井新さんも来られたりとか。
俺の部屋は当時、色んな方が入り乱れていたんだよ。
だけど地元の人にしてみると、自分が高柳の和を乱していると見る人も圧倒的に多かったと思う。
田中角栄崇拝でいなきゃいけないのに、なんでそこでケチをつけるんだという。
今でも覚えているんだけど、自分が選挙終盤に「今の現状を一言で言うと新潟3区は忠義と正義の板挟みです」という表現をしたのをニュースキャスターは結びの言葉で締めくくった。
その年、俺がインドネシアのバリ島に行くとき飛行機の中でサンデー毎日を見ていたら「新潟3区に異変」とかいうタイトルで俺が載っててびっくりしたんだけど(笑)
雑誌はこういうふうにできあがっていくんだと思ったね。
当時としては全国への発信だったから本当に励ましの手紙や電話もあれば、馬鹿野郎ごなしの手紙だとか無言電話もあったね。
ちょうど女房が嫁に来た頃だったから、その無言電話に出たりすることに対して自分は誠に申し訳ないなあと思った。
そして自分が初めて大人になった感覚というか。
しっかり自分はこうなんだと、ぶれないものを持たなけれないけないという自覚を持った年でもあった。
今までみたいにちゃらんぽらんに言っているわけにはいかないなと。
例えばいくつかの取材を受ける中で昨日はこんなこと言ったのに、次の取材のときにはそれとは相反するようなことも言っているんだよ。
どちらも自分としては本音なんだけども整合性が取れない。
そういったものを自分の中で整理をしていかないといけない。
考えることと思うことの整理。
だからかなり大人にしてもらったような気がする。
一人前の白黒はっきりつけて、人からしっかり批判も受けるし支援も受ける、というようなことをその頃に経験する。
「20代を議会に」というのがキャッチフレーズだった。
ポスターもその頃は写真入りのポスター作るとむしろ票が落ちるみたいな、そういう質素を基とする空気があって、1期目の時はほとんど写真刷りのポスターは無かったんだよ。
2期目の時から顔写真が入っているのを作った。
1期目のときは146票という票数で下から3番目で当選する。
それから2期目が真ん中辺。
3期目が上から3番目の票を頂いた。
議員は本当は2期で辞めようと思ったんだけど、3期目が町長選とぶつかって自分が支持した人をどうしても町長にしたいと思ったもんだから、
選対本部長から後援会長から引き受けた。
それで結局3期目の議員に立候補したんだけど、ただ3期目に出る条件として4期目は出ないというのを水曜会のメンバーに了解をもらって出馬した。
政治というのは自分が出る出ないを決めることができないようになっていくんだよ。
組織の代表であり、辞めるときに辞めたいなんて贅沢は許されない世界だから。
前もって3期目出る時には4期目は出ないというのをかなり念押しをして出た。
最初の頃、門出では俺たちの評判はすこぶる良くなかった。
「なんだか若いのが康生の家に集まって酒飲んで町を転覆させるような相談をしている」というふうに受け取られていたんだよ。
確かに真剣に地域起こしに取り組もうという話もしてないんだし、酒飲んでるし、仰る通りなんだけど(笑)
それで自分はこれはまずいなと思って、自分たちが考えてることを全町民に知らせようと。
それで機関紙「よもやま」というのを発行する。
青年団で団長をやった中村圭希が手書きで字を書いて、青年団の使わない輪転機を水曜会が使わせてもらってそれで刷った。
ローラーが減っているものだから所々読めないところもあったりして、無料配布しているからB4のわら半紙4枚くらいで折り込み16ページはあったかな。
1面は俺と、いま市議をやっている村田幸多朗と交互に書いていた。
水曜会の今後の取組みを書いた熱いメッセージ。
それとこれから狭山の朝市行きます、行ってきたらこうだったとか次の展開はこう進めるとか。
そのあと文芸欄を設けたり「私の一般質問」というコーナーも作った。
町長が答弁を書いてくれたんだけど。
議員が町長に対しては一般質問できるけど、一般町民が誰でもが町長に質問できるのが良いかなと思って。
その質問事項を町長に持っていって回答を書いてもらうという。
ただ一般町民が次から次へと町長に質問するのはいかがなものかと議会で言われたんだけど。
機関紙「よもやま」は水曜会のメンバーがいる集落はメンバーが配布するんだけど、メンバーがいない集落は新聞配達に1部10円で配ってもらって合わせて1200部発行した。
年に4回発行する予定だったんだけど結果的には年に2回か3回くらいだった。
でもそれは非常に効果があって町を転覆させる組織だと思っていたものが、一応真面目に考えてるし、都市との交流運動が極めて大事だということの中で狭山の朝市に行くことを決めたとか、そして次の号には行ったらこうだったと、そして次の展開はこうあるべきだということを提案をしながら必ず実行して、その報告も書いていた。
それはたぶんその後の自分の議員の地位としても、小林康生1人ではない力として発揮してくるんだよ。
自分は曲がりなりにも若い者の組織の代表者であるから町行政のほうもちょっと扱いを考えないとしっぺ返しを食らうみたいな意識があったり、一応重きを置かれる立場になってきたんだよ。