Chapter15 青年団について
青年団について
昔はどこの集落も青年団というのが活発だったんだよ。
そこで礼儀とか共に目的に向かっていく達成感を学ぶ、若者のコミュニティとして青年団が機能していたんだよ。
誰と誰が仲良しではなく全員が仲良く活動することを学ぶ。
柏崎市高柳町青年団には各支部があって高柳町青年団を本部と呼んでいて、我々は門出支部、他にも各集落にあった。
自分が20歳の頃、もう43年も前になるけど過疎の影響もあって、他の集落は支部の力が失われてきた時期だったんだよ。
でも門出はまだ非常に強い絆で青年団が運営されていた。
青年団の運営のベースにあったのは集落の伝統行事。
行事というのはまずは1月の「鳥追い」
鳥追いは元々子供会がやっていたんだけど、1月15日の行事。
それから7月15日の「稲虫送り」
稲の虫を追い払う行事で、屋台を出したり。
それからお盆の「盆踊り」とお盆の最後に「寄り角力(よりずもう)」
寄り角力は「門出神社奉納寄り角力大会」ということで、各地区から我はというような人が寄ってくる。
寄ってきて角力を取るから寄り角力。
集まった人を西と東に分けて始めるんだ。
その寄り角力をやってるのは当時、高柳町では門出と岡野町だけだった。
うちのお親父の若い頃は各集落でやっていたんだけど。
そういう行事を仕切る角力協会と合同で青年団が中心的な役割として担っていたんだよ。
門出は若い人と年寄りが同じ釜の飯を食うようなことをやっていたから、そういった面では世代間の断層が少なかったような気がする。
それに加えて門出には9月23日彼岸の日に「演芸会」というのがあった。
自分らがやってた15年くらい前から始まったと思うんだけど。
青年団で代々続いて演芸会というのをやっていた。
演芸会の第1部は踊りやコントなど、第2部はユニオン楽団というのを編成して演奏する歌謡ショー。
みんなが歌手になったり楽団になるわけ。
俺なんかフォークギターを少し弾いてただけだけど、サイドギターを担当する。
即席仕上げで特訓して楽団を編成するという、今考えると笑われそうだけどそんなことをやっていた。
ちょっとギターをかじってるのはリードをやって、かじらないのはベースかサイドギター。
そういうのをユニオン楽団という大層な名前をつけてやっていた。
それから踊りも1人が3つぐらい、ほとんど全員が輪踊りから民謡踊り、ペアのもあったなあ。
あの頃は民謡のレコード盤の付録に踊りの写真が載ってて1番はこう2番はこうと図面化したものがあって、それをみんなで見ながら「どうやらこうやって右上げてこうなるみたいだね」とか言いながら覚えて練習する。
だからお盆の最後の角力大会の後片付けが終わると、それから毎日夜は青年団で演芸会の準備に入るわけだ。
古い木造の公民会に集まって、まずどんな踊りをするとか決めていく。
なかにはコントをしたり、俺も後半は自分で脚本を書いて役者を決めて演劇をやったりしていたんだよ。
演芸会は集落のほとんどの人が見に来てくれる。
一応無料なんだけど、みんなが花代とか言ってお金を持ってきてくれる。
入り口に受付係もいて。
それはただ演芸会を見るお金というよりは「1年間青年団ご苦労さん」というような想いが込もったお金なんだね。
だから高柳の本団よりも門出支部のほうが活発で、2倍くらいのお金を動かしていたんだよ。
演芸会は、そこの集落だけではできないところへ応援に行くというようなこともやっていたんだよ。
例えば石黒の人だけだと演目も少ないから、門出でやった歌謡ショーの曲を歌手だけ地元の人に替わる。
栃ケ原にも行ったし小さい集落に行っていたね。
いつも演芸会の練習が終わるとそのまま家に帰ることなんてなくて、酒飲んでそれから十日町や柏崎にまた飲みに出かけることもある。
俺は酒飲めないからもっぱら運転手に駆り出されてたけど。
それで午前様で帰ってくるというのが当たり前の状態。
その頃、門出の真ん中あたりには「三得庵」という飲み屋と「田屋」というスナックがあって、ほぼ確実に半分ぐらいの者は残って酒盛りをする。
そしてたまには十日町や柏崎に繰り出す。
だからその期間は非常に楽しいわけだよ。
そういうものが深い絆を作るわけだね。
その中で結婚したのも結構いる。
自分がいた頃は男女ともに青年団は25歳まで入れた。
それ以降に30歳までとか年齢制限が上がってくるんだけど。
あるとき青年団でヤギを飼おうとかいう話になった。
田代(当時は松代町)のダムが門出から行くと高柳橋、田代橋、トンネルを越えた向こうが相沢橋。
相沢橋の右側のほうに限りなく島に近くなっているところがある。
出入り口が細くなってて島に近い状態の、たぶん5、6反くらいの面積。
そこをヤギ牧場とか名付けて、3頭だったかな、ヤギを放牧しようと。
みんなで草を刈り道を作りエサくれ当番決めて、秋になったらそのヤギを食べて謝肉祭みたいなのをしようと始めたんだよ。
それで小屋作ったりみんなでしたんだけど、エサくれ当番が不真面目なのばっかり揃って、入れたときよりヤギは痩せこけてかわいそうな状態になって。
とてもこれは食えるようなヤギじゃないと(笑)
それで飼い主のところにヤギは返して、秋市のときに競り落とした黒鯉を鯉こくにしてみんなで反省会をした覚えがあるな。
あとは俺が青年団の支部長をやっていたときに「ちゃじょっぺ」という新聞も発行していた。
「ちゃじょっぺ」というのはお茶を飲むときの漬け物を意味するんだけど、それを高柳の言葉で「ちゃじょっぺ」と言う。
お茶飲み話という意味合いでその名前をつけた。
青年団の予算で謄写版を買ってローラーインクで刷っていた。
最初は俺が鉄筆で字を書いていたんだけど読みにくいという声がいっぱいあって、中村圭希に字を書くのは変わった。
文芸欄だとか多角的に色んな人から原稿をもらって、月に1回出したり2ヶ月に1回だったり不定期だったけど。
その青年団の中で先輩方に我々は鍛えられてきたんだよ。
今では考えられないくらい徹底的な組織だったからね。
例えば門出の大工の棟梁の中村正志さんとか特にクセの強い支部長さんだったから(笑)
「我々が嫁をもらうためには農休日という休みをしっかり取らないと誰も嫁に来てくれないから、村でしっかり定めている月に2回の農休日は仕事に行っちゃいけない。
みんな各農道の入り口に立って今日は農休日ですから仕事をしないようにと睨んでいろ」とか言われて各農道の入り口に自分らが看板持って配置をさせられたり(笑)
昔は農家は休みを決めてあっても仕事に行くんだよ。
そうすると嫁いだ嫁さんは大変だから農休日を設定するんだけど、きちっと守られていないとこがあってそういう実力行使に入ったんだね。
自分が20歳の頃、沖縄に行ったときに向こうにも青年団があちこちにいっぱいあって、村の伝統行事の太鼓を持ちながら踊る練習をする姿を見て、門出よりも団といわれる組織が色濃く感じられたんだよね。
社会的な団体生活とか社会における責任感を植え付けたりするのに、そういう組織が非常に有効だと感じたんだよ。
そうやって共同でひとつの目的に向かって集落のために忠誠を尽くす、集落のためを想ってやるというのがとても意味が深いものなんだと感じたんだよ。
自分が「大地の学校」を構想している背景にはそれが尾を引っ張っているところがあるんだろうね。