Chapter10 伊沢紙について


伊沢紙について


※伊沢とはかつて新潟県東頸城郡にあった村。
1889年(明治22年)、町村制施行に伴い東頸城郡犬伏村、孟地村、苧島村、片桐山村、中子村、滝沢村、海老村、東山村(一部)が合併し、伊沢村が発足。現在は新潟県十日町市。現在の伊沢和紙工房は犬伏集落内にある。

上杉謙信の時代に信濃の豪族、村上義清が信玄に圧されて謙信を頼るようになるが、結局は越後に移動する。
そのときに城家老でいた伊沢庄左衛門が住み着いた場所が今の孟地、犬伏のあたり。
それからそこを伊沢谷と呼ぶようになった。
その関わりのなかで伊沢紙が始まったと考えられる。
門出もその流れを汲んで伊沢紙を漉いていたし、松代、松之山も伊沢紙を漉いていた。

伊沢紙は妻有地方、津南だとか飯山の流れがあるという説もあり、信濃川沿いという地理的にも文化的にも考えると長野のほうから内山紙の流れで伝わったと考えるのが普通ではあるけど、伊沢紙の起源は内山障子紙よりももっと古いみたいなんだ。
かつて松代町田代(現在柏崎市高柳町)の人が書いた昔の松代の記録の中に、伊沢紙について、内山紙の流れからと書いてあったから、そのまま自分が松代の人にそう伝えたこともあったから訂正しないといけないかも知れない。

伊沢紙の大きさはA3(420×297mm)の大きさなんだよ。
通常日本ではBサイズが基本の大きさで、Aサイズはヨーロッパから来たと言われている。
25年ほど前うちでララ・ジュランドというアメリカ人が1年間修行したことがあって、帰るときに道具をプレゼントしようと思って、アメリカならA3が良いかなと思ってサイズを聞いたら伊沢とぴったりで驚いた。
でもその寸法を色々調べていくと埼玉の細川紙になる。
その細川紙は和歌山の高野紙の流れを組む細川という集落から来ている。
つまり高野紙と伊沢紙は同じ寸法だから、伊沢紙のルーツはそこにあると思っている。
高野紙からどういうルートで来たのかはわからないけど、この大きさは全国的にも少ない。

高野紙は現在そこの地区の人たちが残そうと続けている。
8年ぐらい前の青年の集い和歌山大会で高野紙を漉いているのを見させてもらったら、うちが昔からやってる伊沢紙の漉き方に非常に似ていた。
だから伊沢紙は高野紙の流れを汲んでいると思う。
違うところは、簀の枚数がうちは3枚使ってたけど、向こうは13枚ぐらい使っていた。
高野紙は昔から簀もカヤを採って自分たちで編んでいる。
カヤを採る時期が新潟と違って、向こうは秋の彼岸を中心とすると聞いたけど、新潟は11月の雪が降る間際になってから採るというのが違うくらい。
あちらは時期が遅くなるとカヤに油っけがなくなると言っていたけど、こちらは完全に成長しきってから採るくらいで、あとはほぼ一緒だね。

天和の時代、天和4年(1684年)に門出は幕府の直轄になり、その時の天和検地がある。
元禄時代の後が天和、元禄の前が貞享で、我が家には貞享4年の記録があって屋号になっている小林半左衛門の記録が残っていて、今から350年くらい前になるかな。
その天和の紙はここで漉かれていた伊沢紙と同じ紙だった。
だからその時代にはここら辺で伊沢紙は漉かれていたことも考えられる。
伊沢紙は薄めに漉いて大福帳にも使われてはいたけど、厚さも大きさも障子には向かない。
例えば美濃紙の大きさは障子にも使えて、大福帳の基本の寸法だから用途的に大衆向きだし全国にも多い。

伊沢紙の漉き方は、途中までは流し漉きだけど最後は溜めるという流し溜め漉き。
これは小国紙もそうだけど、おそらく昔は全国的には珍しくない漉き方だったと思う。
溜め漉きで厚くすると、表面の繊維の長さが不規則でクレーター状になって光が乱反射して表現が豊かになるというのが特徴。
溜め漉きは透かして見た時に深みのある味のある紙にはなるんだよ。
完全に流し漉きになったのは改良判という大きい紙になってから主流になった。
現在も門出和紙で漉く単判の伊沢は最後溜める漉き方だけど、2枚取り(連判)の伊沢は流し漉きで最後捨てるから伝統的な伊沢とは違うやり方になっている。

でも俺は埼玉小川で教わったから数が取れる倍判というのが紙を始めた頃は頭にあって、1回で何枚か漉ける大きさで漉いていたんだよ。
他の紙屋のひとたちは「もうそんな時代じゃないの」にと言っていたけどね。
だから考え方を単判に切り替えるときは勇気がいったね。
これまで200枚できていたのが100枚になるから。
でも美濃の古田行三さんに単判にしたほうが良いと強く言われたんだよ。
「すぐに慣れるから必ずそうしなさい。2枚漉いたって2枚漉いた分で問屋が買うから安く叩かれ一緒になるんだから」って。それは後からなるほどなあと思ったね。

(上部写真/伊沢紙を漉く小林康生さんの母・ウメ子さん)

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