Chapter03 出稼ぎの頃、出会いについて


---- 出稼ぎではどういう仕事をしていたんですか?

作業場を作る資金稼ぎに、冬は大阪のカネボウに2年、愛知に1年行っていたんだよ。
カネボウのその時の基本給が3800円ぐらいなのに月に15、6万稼いでたから毎日4時間残業の昼夜2交代で、土日もほとんど残業してとにかく時間で稼いでいた。
その時やっていたのは布を染めてシルクスクリーンで染めたものを蒸気で一旦熱をかけて、余分な色を洗い流すという仕事をしていたんだよ。
その時一緒に働いていた人に最近会ったら、その当時、染めについてすごく質問していて異常のようだったとその人は言っていたんだよ。
自分はそんな記憶は全然ないのだけれど(笑)
だからすごくそういう紙や染めへの情熱のモードになっていたんだろうね。

その出稼ぎの最中も同世代が休みの日になると、難波に飲みに行くだとか梅田に遊びに行くのに、俺だけ黙々と仕事をしているのも変わっている青年だなと自分でも思っていて、少しは青年らしいこともせねばならんだろうなと思って、週に2回柔道に通ったり、古本屋に行って片っ端から本を読んだりしていたね。
芥川龍之介から川端康成、太宰治など、とにかく片っ端から読んだ。
その頃は夜中も本を読んでいたので3時間ほどしか寝ていなかったね。

出稼ぎは俺ぐらいが最後の世代だったんだよ。だからとっつぁん方の中にポツンとが若僧が混じっているような状況だった。
でも今から思うとその出稼ぎというのが自分を鍛えるのにとても良かった。
その出稼ぎが今の自分のベースを作っていると思っているんだよ。

やっぱり自分の目的に向かってやっているときは、苦しくとも本当に苦しいと思わないんだよね。目的が定まってれば。
一番苦しいのは目的が定まらないときだと思うな。
迷いがあってどうしたらいいんだろうと思ってるときが一番苦しいんで、腹が固まれば難儀なこともむしろ楽しみになってくるというか。
それから小説を読んでいるせいだろうと思うんだけど、極限みたいなものの中にこそ人間の面白みがあると気付くんだよね。色んな登場人物がまともじゃないからさ。
自分にもすごい死ぬぎりぎりの難儀がやってくると、今まで知らなかった自分に気付くことができるように思うと、なんとかもう1枚苦しみがやってくればいいのになと思う自分がいるんだよね。
それが固まると人ってすごい力が出るんだよね。
この頃みんな簡単簡単っていうけれど、難儀をいっぱいすることが生きてきた価値なのになぁと思うんだよね。
それに強い志を持つと、いつの時代も救ってくれる人が必ず現れるんだよ。

---- 紙を売りに歩く

自分が出稼ぎに出ると親父が紙を漉いて、出稼ぎ先で俺が紙を売りにに行くようになるんだよ。
小国紙の真ん中に仕切りを入れるとちょうど便箋の大きさになるから、その便箋になったものを初めて商品として大阪に売りに歩く。
大阪っていうところはいきなり「なんぼや?」という所から始まるから、なかなか次の話が進まない。
それでもその頃、丹青堂さんが一番買ってくれたかな。
その時は電話帳を見て、前日に電話を入れ夜勤の時は3時間寝て昼から風呂敷に現物を持って片っ端から売りに歩いていたからね。
紙の現物持っていって「この何束をいくらでどうですか」みたいことをやっていたんだけど、その時は3万円以上は印紙を貼ることさえも分からないくらい何も知らなかったんだよ。

でも値段を買い叩くような所は不思議と注文が何年も続くんだよね。
可愛そうにと思って義理で買ってくれたような所は次の注文がないんだよ(笑)
だからそれは自然の摂理というか、商売はうまく成り立っているんだよね。

その後は京都のほうに行くんだけど敷居が高くて、声を掛けるのが非常に辛くて嫌だったね。肉体的にきついのは辛くはなかったけどね。
百姓屋の子どもはそういうもんなんだろうね。

---- 最初の1年目のこと

1年目は1年分の仕事を取りにいかないといけないから、東京に11月頃、問屋を回り歩いたんだよ。
でも1番最初のベースとなる仕事は木我さんがくれて。それは山崎青樹さんの草木染研究所の便箋とはがきと封筒の仕事で、毎年約15000枚くらいの仕事だった。
まあそもそも最初の草木染研究所の仕事だけだったら、農業をやりながら俺1人だったら食えたかもしれない。
だけどその当時、俺は紙を本業にしたいという気持ちがすごく強かったんだよ。
1年中紙の仕事で食いたいという気持ちがあって、色々と仕事を開拓していったんだよね。
いずれにしても1日かかっても500円になるかならないかくらいの仕事を最初はずっとしていたんだよね。
それに従業員がいなかったから、自分が我慢すればそれで良かったし。

始めた当時は年の暮れに金がなくて、どう正月を越そうかと思っているときに、見附かどこかの人だったと思うんだけど、紙を売ることを仕事にしたいという人がうちに紙の注文をくれて、現金に替えられたりと、とにかくいつもギリギリだった。
そのギリギリなのがすごく切ないんだけれど、すごく面白いんだよね。
あぁまたクリア出来たというような感じで、生きている感がする。

---- 大村しげさんについて

2年目の出稼ぎをやって引き上げるときに、「第1回手すき和紙青年の集い」が京都の大覚寺で行われたんだよ。
俺は出稼ぎ先の愛知県の岡崎から初めて新幹線に乗って、京都からはタクシーで大覚寺まで行った。
俺が20歳のときだった。
その帰りに静岡の内藤さんとか4人ぐらいで京都を歩いていたんだよ。
そしたら「手作りの店 峯(みね)」というのがあって入ったら、驚いたことに小国紙をよく知っているんだよね。
そこにいたのが鈴木靖峯さんとその叔母の大村しげさんという人で、大村さんは随筆家で「京のおばんざい」で知られる京都では有名なおっかさんだった。それは後で新潟でテレビを見ていてわかったんだけど。
で鈴木さんが、ほんの1坪の店をやっていてそこで大村しげさんが店番をしながら執筆活動をしていた。
大村しげさんは京都の料亭なんかにも一目置かれていた方なんだよ。

考えてみると大村しげさんが小国紙を知っていたのは、和紙研究会っていうのが京都で戦前の頃からあって、それが寿岳文章さんだとか広辞苑を作った新村出さんとか、染色会の上村六郎さんだとか、いわゆる文化人といわれる人たちが、和紙の研究論文を出していたグループがあって、文化人の大村さんとそこのつながりがあったからだと思うんだよね。
その中で、寿岳文章さんが小国紙を大変褒めてくださり、新村出さんが短歌集を出すときに「どんな紙を使ったらいいか?」と寿岳文章さんに聞いたときに小国紙を勧められたようだ。
それで新潟の西窪商店から小国紙を取り寄せて使用された。
その西窪さんは自分が20歳代の頃に新潟の加茂に住んでおられてお会いしたことがある。
その人が小国紙を京都に販売して広めた人だったんだろうね。

鈴木さんと大村しげさんが「あんたの紙もうちで売りましょうかね」ということになって、こんなふうに売ったらどうかみたいな売る指南を色々教えてくれたんだよ。
「あなたの気持ちを入れたメッセージをつけなければ伝わらないから、印刷してそういうものを入れたほうが良い」とか、「帯はハンコのほうが良いんじゃないの」とか。
「雪国の小国紙にしましょうか、越後の小国紙にしましょうか」とか聞いたら「雪国・越後の小国紙が良いんじゃない」とかそういうアドバイスをもらったり。
それで小国紙を半分にした便箋を販売してもらうんだよ。
そのときの曰くが、俺が20歳のときに考えた「小国紙の手ざわりの中に雪国の母のぬくもりを感じる…」みたいなメッセージを入れて、今読むと気恥ずかしいのもあるけど、それは俺が出稼ぎ先で1週間ぐらい考えた記念すべきエッセイみたいなものなんだね。

そのとき小国紙を売り出すときに本当の字である「小林康男」の「男」を、生紙というのが生きるという字を使っていたし紙に関連づけるほうが良いと思って、「生」きるという字に変えて紙関係では「小林康生」と名乗り始めた最初なんだよ。

その後、お世話になる京都和久傳(わくでん)の女将、桑村綾子さんを継いでくれたのも大村しげさんだったんだよ。また鈴木さんはその後、バリ島に住んで、自分も「バリ紙」の試作で何度か訪れることになるんだよね。

---- 不思議な出会い

その当時、紙の大きな問屋といえば京都の森田和紙、横浜の森木紙店、東京の山田商会と言われていた。
俺が出稼ぎ先で京都の森田和紙をたまたま訪ねたとき、そこの専務と出会ったんだよ。
当時の森田和紙の専務の森田康敬さんというのは、若い紙屋を育てることや紙の文化的な出版など、アピールを盛んにやってた人だったね。

ある時、専務のところ訪ねたら「小林くんは運がいいよ。今日は上村先生が来てて、これから食事を一緒にするから君も来たまえ」と言われて、当時、染色家では大御所の上村六郎さんが、後でわかったんだけど新潟県柏崎の宮川出身だったんだよ。
京都らしい料亭に入ると、石の上に鉄鍋みたいのを下から火を炊いて蒸すような感じのが置いてあって、それにたけのことしいたけとか乗せて、それをなんとかの有名な塩とかつけて、究極のたけのことか言って食べるんだけど、自分にとっては薄味過ぎて旨くもなんともないんだよ(笑)俺も若いし油ものが欲しいときだからね。

それでそのとき上村六郎さんと知り合ったんだけど、不思議な縁でそれから40年ぐらい経って今の門出和紙の生紙工房をオープンするときに、古いお経だとか江戸時代後半の書家の巻菱湖(まきりょうこ)の書をたくさん持ってる磯島氏から、手漉和紙大鑑という本を寄贈してもらうんだよ。
その手漉和紙大鑑には未代吉じいさんが漉いた伊沢紙も入っていて、前から欲しいと思ってたけど、金がなかったりで持ってなかったんだよ。なにせ当時で40万円もするものだから。
それで嬉しくてその中を見てみたら「贈呈本 上村六郎」って書いてあってびっくりした。
その40年前に出会った人のものが、どういう運命かで俺のとこに流れてくるんだろうね。
だから贈って下さった磯島さんには「この本はいずれ然るべき人のとこへ流れていくような気がします。自分は預からせてもらうような心気分です」と答えたんだよ。

---- 漉き和紙青年の集いについて

京都に紙を売りに行って遅くなったときなんかは、森田康敬さんの家に何回か泊まらせてもらった。
専務は話好きの人でいつも朝方まで喋るんだよ。その内容が手漉和紙大鑑を作るときの苦労話。
手漉和紙大鑑は、森田康敬さんが仕掛け人として毎日新聞社100周年記念のとき毎日新聞社にたきつけて出版されたもので、全国の紙をかけずり回って集めたのは森田康敬さん。
そのかけずり回る場面場面の話が朝までずーっと続くんだよ。
話は面白いんだけど朝まで続くから俺も眠いのを我慢しながら色んな話を聞いたね。

そのとき文化庁に柳橋眞という面白い役人がいるんだよとか、もともと漆のほうでやってた若手の集いを今度は紙漉きバージョンでしようと考えているだとか。
それで手漉き和紙青年の集いというのをやることになったんだね。
柳橋さんと、柳橋さんは高知の宮崎謙一さんにたきつけて、あと森田康敬さん、金沢の斎藤博さんなんかが世話人会を開いて、第一回目の手漉き和紙青年の集いを京都の大覚寺でやることになった。

とにかくみんな貧乏だから金をかけないでお寺とかといった宿舎を使うとかを申し合わせて始まるんだよ。
そのとき20歳なのは俺だけでそれから3年ぐらいは俺より年下のはいなかったな。
その頃は紙屋にとってどん底の時代で900戸くらいの紙屋があって年に1割ぐらいずつ減ってるという頃で、そんな現状も俺は知らなくて青年の集いに出て初めて和紙界の事情を知って非常に驚いた記憶があるね。

でもすごく良かったのは俺みたいに一匹狼でやってる者にとってはそこで同業の仲間たちを得ることができるというかな。
最初はみんなお互いのことよく知らないから自己主張をするんだよ。
こういう紙じゃなきゃだめだとか、とにかく売れなきゃだめだとか、いやそんなのはけしからんとか。
でもその頃、俺は出稼ぎ人でほとんど紙漉いてないから話に加われないんだよ。ただ聞いてるだけで。
でも段々それぞれの立場や、やってることがわかってくると、あの人はたくさん作らなきゃいけない立場の人だからとか、この人は1人コツコツやってればいいとか、色んな立場の違いによって、立場の違う紙をやってるから、あれが良いこれが悪いとも言えないなあ、みたいな感じで4、5年もするとみんなが自己主張しなくなっていくんだよね。

その頃の俺は金はないけど、紙をやる意志だけが強くて毎回顔を出してるから、他の産地の先輩方から可愛がられるんだよ。
それで次第に青年の集いがある時は終わってもまっすぐ帰らないで、興味がある人のところへ立ち寄ったりしながら車に一緒に乗っけてもらってたね。
だから青年の集いというのは俺にとっては非常に有り難い存在だったんだよね。
今だったら頻繁に会うこともできるけど、あの頃は1年に1回だけ同じ紙屋と会える唯一の場だったからね。
だから夜中も徹底的な討論だとかワアワアやってたんだろうね。
10回目の東京大会までは紙屋だけしか来なかったから40~50人なんだよ。今と違ってみんな雑魚寝だったし、ある意味では濃密な時間で。
だから新潟大会のときは2回ともかなり意識的にその頃の雰囲気を出したつもりだったんだよ。
小国の旧体育館に寝かせたり、なるだけお客さまにさせないというのを意識してやったんだよね。

(上部写真/大阪カネボウ淀川工場にて夜勤帰りの小林康生さん。21歳の頃

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