Chapter02 昔の紙仕事について


---- 冬の紙仕事について

この辺りでは楮は11月の雪降る間際に刈って、家の前に縦積みにしておくんだよ。
刈らないと楮が雪に埋まっちゃうから。
そして雪が一旦降ってからそれを3把か4把ぐらいずつ雪の上に筵を敷いてナタで1本1本2尺5寸に切り揃えていく。
今は3尺になったけど、それを釜で蒸して皮をはぐ。
今は楮を一気に全部蒸してるけど、あの頃は一気にはやらない。
1日に4釜か5釜ぐらい蒸して、皮をむく。その後、皮引きという表皮を削る作業をやって、それを軒先に干して乾燥させていく。
寒くなるから軒先に干しても腐らないんだよね。
それに目処がつくとまた雪の中から楮を出して、同じように蒸してを繰り返すんだね。
それで漉くのは年が明けてからの年もある。
だから正月前までは白皮、なぜ皮に仕上げていくと。

大体、我が家では正月前に皮の処理は終えていたね。
年が明けると今度は皮を煮て、叩いて、叩くのは夜なべ仕事でやって、昼間に紙を漉く。
そして4月21日が集落の春祭りだから、それまでには全てを終えて金に替える。
その後は田んぼの段取りに入るから紙仕事は4月20日までだったんだよね。

---- 紙仕事が終わってからは何をするんですか?

それ以降はお米を作ったりだね。
子どもの頃は山の斜面の土を取ってきて、それをまだ雪に覆われた苗代のところに撒いたり、あるいは燻炭を撒くとそこが黒くなって太陽の光で早く消える。
他の場所より50~60センチくらいは早く消える。
それでも大雪の時は間に合わないので、スコップで所々クレーターのように穴を掘ることでそこから穴が大きく広がっていき、雪が消える。
雪は動かしておけば早く消えるから。
雪が降り止まった頃、大雪の頃だと4月初旬から穴を掘っていたね。

そして4月20日頃から4月いっぱいの間までにとにかく苗代のすじまきをする。
それから1ヶ月後頃に田植えを行うから、それまでに他の雪消えの田んぼを田打ち(たぶち)、田起こし、ならしを行って植えられるようにする。
だから4月は田んぼの準備にかかっていくんだよ。

---- 子どもの頃の家の紙仕事で印象深く憶えていることはありますか?

体に染み付いているのは紙の匂い。
他の家にはない、一種独特のトロロアオイと紙なんかの匂い。
我が家に入ったとき、特に紙漉き場なんかは強烈にその匂いがしていたね。

それから子どもの頃の手伝いとして、3月には紙干しが始まる。
天気の良い日は、紙がよく乾く昼が一番忙しくて昼飯なんか食べている暇がないので、朝のうちにおにぎりを作ってそれを頬張りながらやるんだよ。

板持ちと言って紙板を長干し(なげし)の所から、紙を貼り付ける人のところに持っていって待っている。
貼り付ける人が紙を貼ると、付けた板とこれから付ける板とを交換して、紙板持ちはまたトコトコと長干しの所に持っていく。
そうしているうちに乾いた紙を剥いで、また板持ちは貼り付ける人に次の板を持っていく。

そのような作業を板が持てるくらいの年になると手伝わせられたり、学校から帰ったら紙剥ぎを行うのだけれど、板に爪を引っ掻いて剥ぐのだがなかなか取れにくかったり、紙を引っ張ったまま剥がないとクルクルと丸まってしまうので怒られたり、まだ乾いてないものを剥いで怒られたり、そのようなことが紙の手伝いであったね。

それから両親が次の日に漉く分の原料の紙叩きは、決まって夜なべ仕事。
向かい合わせに座って、けやきの紙叩き棒で叩くんだけど、最初は大叩きと言って水分を切った状態で叩く。
横に2往復、それを丸めて方向を変えてまた2往復叩く。これを何回か決まった回数行う。
次に小叩きと言ってこれは今で言う所のビーターの役割になるんだけど、今度は水を木のひしゃくで少しずつ加えていく。
水が溢れるから端を田んぼの畦のようにまくって、そこにひしゃくで何杯と決まった水を入れると静かに原料に浸透していく。
そうすると今度は小さな叩き棒でスピードを上げて、叩くというよりは揉むような感じで叩き過ぎないように。
強く叩くと飛び散ってしまうので、滑らせながら叩く直前はちょっと手前に引っ張るような形で、手前にスポーンと叩くと飛び散るから引きながら叩くんだけれど、リズミカルにパンパンパンパンと交互に叩いていくんだよ。
まるで音楽を聞いているようだったよ。

それを子どもの頃、親から「お前部屋にいて寝ろ」とか言われるんだけれど、冬なんかは寒いし、1人で寝るのも嫌だから両親が叩くのを脇で見ている。
そうすると黒いマントのようなボロを背中にいっぱい羽織ってもらって、「あと何回したら終わる?」ということを盛んに親に言いながら、「お前さっさと寝ろ」と言われても脇でずっと見ている。
そんなようなのが記憶の中にあるね。

---- 子どもの頃は紙仕事がイヤだと感じなかったですか?

子どもの頃も自分が紙の仕事を嫌だということはなかったね。
嫌だと思えばきっとやっていないだろうと思うし、特別に魅力があったということではなかったが、でも無意識の中できっと紙を選んだっていうからには、どこか記憶の中の力というものがあったのかもしれないよね。意識してないけれども。

---- 父親の紙仕事について

うちの親父は仕事が丁寧のほうだったらしいんだわ。
「北屋」のお袋の実家は量タイプで、「孫四郎」のほうがどちらかと言うと良い紙のほうをやっていたみたいだね。
うちの親父は情緒と完成度の両方を合わせ持った素晴らしい紙を漉いていたんだね。
それは茅簀(かやず)だったから出せたのかもしれないけど。

漉き紙を1枚ずつ重ねる紙床を俺は定規を入れないと同じところに積めないけど、親父は定規なしでも3層紙でも、4層紙でもピッタリ重ねる技量を持っていたからね。
竹之高地で雪布和紙をやってた原刀利松さんがうちの親父の紙のことを「職人ではないんだけど職人のような紙で、風情や情緒を残してた天下一品の紙だったね」って言っていた。
その頃は漉くときに舟の中の原料をかき混ぜると今の楮よりダマ(双丸)がいっぱい出たんだよ。
見てると、漉いてる時間よりそのダマを拾い出してる時間のほうが長かったね。
ネリを多めに入れてかき混ぜて消して漉いてたから手間もかかってたけど、こんねりとした情緒のある紙を漉いていたんだよ。

その頃は小判を1日400枚漉けないと1人前じゃないと言われてたからね。
乾燥も板干しで1200枚ぐらいは干してたんだよ。鉄板乾燥だったら1600枚ぐらい干してるね。
うちの隣の「甚六」のばあさんが自分の家が紙をやめてから、うちで鉄板の平板乾燥機で小国紙と便箋を干してもらってたことがあるんだよ。
歳もいってるから大変そうなんだけど、毎日1000枚以上は干してたからね。
昔はとにかく量なんだよ。

でもどういう用途の紙かに応じた技量を持つことが一番腕が良いんだろうね。
必要に応じて量を上げる紙も漉けるし、質のほうを重視した紙も漉けるのが一番器用なんだと思うね。

(上部写真/小林康生さんの父・栄一さん50歳代の頃。伊沢紙を漉く

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