Chapter04 紙漉きを始めた頃


---- 紙漉きを志したのはいつですか?

自分が高校3年の当時、小国の山野田集落では小国紙を木我忠治さんと江口ミンさんというおばあさんの2人、それから苔野島で中村英一さんが小さい小国判じゃなくて改良判と称する小国判を漉いていた。
小国判というのは9寸×1尺3寸という寸法。
これが4倍の大きさ、それを4連と言ってその言い方は高知県のほうから伝わってきたんだけど、4連あるいは8連という大きさの改良判を中村さんは漉いていた。
だから小国では3箇所で漉いていたんだけど、その木我さんというじいさんが紙をやめる時に楮がもったいないから、うちに買って欲しいと相談に来るのが自分が高校3年の、まだ進路が決まってない時なんだよね。
たぶん10月だったと思うんだけど、バイクで木我さんはやってきて自分が学校から帰ってきたら、囲炉裏で酒飲みながら親と話してて、自分も加わったときに「あんた小国紙も一緒にやらんかね」と言われたんだよ。
「道具も一切やるし、小国紙の後継者になって欲しい」と。
そういう強い要望があって、結果的にはその要望通りに自分が紙漉きをやることに決めていくわけだね。

紙漉きをやろうと決断すると、自分の行動はすごく早いんだよ。
12月の雪が降る前にバイクで、楮畑に開墾するための畑を高柳中、見て回った。
それから雪が降って親父が出稼ぎに行っている頃、そうなると紙を漉く本格的な作業所の建設資金も必要だから、家の杉の木を売って作業所を作りたいという計画を出稼ぎ先の親父に電話で言ったら、「まあそんなに急ぐな」とか言われて、自分のほうはものすごく急ぐ気持ちになっていたんだろうね。
それから俺も3年間冬の間は出稼ぎに行って資金稼ぎをするんだよ。
荒れ地の畑を開墾して楮畑を作るというのを決めて、鍛冶屋さんから1貫目の鍬を焼いてもらって、夏場はそれで2反歩ずつ開墾して3年間で6反歩開墾していった。

---- 埼玉、小川でのこと

昭和49年に作業所を建てて、その翌年に細川紙を漉く。
埼玉の小川の紙業試験場に大判の研修に行ったんだよ。
その紙業試験所は、その頃は他県の者でも研修を受け入れてくれて。
そこの先輩としてはリチャードフレイビンがいたね。その前にはティモシーバレットがいて、その前には静岡の内藤さんが行っていた。
そこは本当は1年の研修だったんだけど、俺は無理を言って10日間紙を漉く部分だけやらせてもらったんだよ。
家が紙をやってるからある程度はわかっていたからね。
それで久保晴夫さんの家の2階に泊まらせてもらって、そこから試験場に通っていた。

まあでも教えてもらうのは初日が30分くらい、次の日に10分くらい、その次の日からは5分くらいずつというようなものだったんだよ。
そんな感じで俺自身も誰かに教わったというのがあまりないから、結局自分でやって覚えるしかないんだよ。
逆に言えば自分で漉きかたも工夫しろと。
失敗こそが頭ではなく体から教えてくるものだ。
それはうちに来る人にも基本を教えて、あとは俺よりいい方法を思いつけばなおさら良いし、あとは自分で考えろというような形で今日まで至っている。
だから今でも事細かには教えないし、むしろ教え過ぎないほうがいいと思っているところもあるんだよ。

その試験場に通っていた関係で、小川の紙漉き屋さんとも面識が出来たんだね。
特に久保さんは親父さんも含めてそうだし、試験場の人もその時は小林清作さんという人が現場の技師だったけど、非常に親しい関係になれた。
そこで最初に教わったのは菊判の2枚取りだったんだよ。
だから俺が門出で紙を始めたのも菊判の2枚取りだった。
舟は木我さんからもらったものだから、左右の余っているところが12センチしかなかった。天地もほとんどぶつかる寸前だったね。
それが俺の紙漉きのデビューだったね。
しかもその時の桁は美濃で作ってもらったもので、すごく丈夫で重くて、最初にやるものとしては全く不適当なものから首を突っ込んだんだね(笑)

今の漉きかたのベースになるものは小川で習ったものだね。
その時、小川では腰で漉けと教わった。肩で漉いてはいけないと。
だからすごく腰に負荷がかかるし、しかも漉き舟はうんと低くて全国的に見ても小川の漉き舟はすごく低いんだよ。
金沢の斎藤さんがうちに来たときに、「お前もう60歳になったら紙漉けなくなるから、もっと立って漉け、足ももっと開け」と言われたからね。

---- 現在の漉きかたの(天地を揺すり)水を跳ねさせるのはなぜですか?

木我さんはそうすることで、紙の目が詰まると言っていた。
だから小国のほうでもパシャパシャとはねさせるほうが良いとされていた。
逆に紙の表面を剥ぎ取ってしまう働きもあるんだろうけれど、たしかにそのほうが目が詰まるんだよ。

逆に美濃紙は上品で、ある意味では面白くないくらい完成度が高すぎて、柳橋先生も「あれを超えるとつまらなくなる、美濃は極限だ」という表現をしていたけど。
まあ俺の気質からいうと、美濃紙の気質じゃないもんな(笑)
俺が教わった埼玉の漉きかたは高知の小路位三郎先生が試験場に入って指導したらしい。
昔の小川の漉きかたは知らないけど、試験場ができてからは位三郎先生がみんなに指導したようだ。だから漉きかたのパターンが決まっているんだね。
化粧水をしたらパシャパシャやって横揺すりをする。そして前後の揺すりも交えて漉くんだよね。
だからある意味では人意的に編み出された漉きかたというかな。

だから美濃のほうは人意的というより、水の流れに逆らわないでやっていると思う。
若い頃は俺も美濃の漉きかたはつまらないと思って興味がなかったんだよ。
どっちかというと典具帳みたいな漉きかたに憧れがあって、パシャパシャをずっとやるようにしてきた。でも40歳くらいになると変わってくるんだよね。
あのパシャパシャはなんなんだと(笑)
水が流れたいように漉いてあげれば良いじゃないかと思うようになった。
人が水を操るか、水に人が合わせるかで、漉きかたは違ってくる。

40歳くらいの頃から楮がなりたい紙というのを目指すようになったけど、
50歳を超えると水が流れたいように流してあげたほうが楮が喜ぶんじゃないかと思うようになったんだよ。
俺ごときがああしてやろう、こうしてやろうと思うのは楮にとっていい迷惑だと思うようになった。
だから今は必要以上にパシャパシャはやらないようにしているね。

(上部写真/昭和47年秋、埼玉県小川町旧小学校・和紙資料館前にて和紙を志した頃の高校3年の小林康生さんと小路位三郎先生

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